山行日:2024.12.25
コース:栃木駅=栃木市営バス=村桧神社入口バス停(8:40)~大慈寺~大慈寺奥の院(9:05)~村桧神社・諏訪岳分岐・200m付近(9:20)~(9:45)諏訪岳(9:55)~京路戸峠(10:10)~鳩の峰(11:10)~唐沢山城本丸・唐沢山神社()~土矢蔵(12:35)~東武葛生線田沼駅(13:05)
諏訪岳から唐沢山城は何度か歩いたが、今回は登りを村桧神社ではなく大慈寺とした。また、前回唐沢山城で、唐沢山神社作成の「唐沢山城跡 山頂縄張図」を入手していたので、その縄張り図を手にして城跡を詳しく歩いてみたいと思った。
栃木市営バスを村桧神社入口で下車。バス停の目の前は村桧神社ではなく、大慈寺。大慈寺は栃木県で最も古い寺とのこと。

慈覚大師堂。

慈覚大師堂の左脇に奥の院への石段があった。

相輪橖。 橖の字の変換に手間取る。

小野寺稲荷。この近辺は小野寺地区というらしい。

上へ上へ歩く。観音堂。

オッ。

岩峰へ廻りこんで登って、奥の院。大慈寺探訪はここまで。

奥の院から東北自動車道と晃石山らしき山並み。

シダの生い茂る道を登る。

シダと階段道。辛いっす。

村桧神社からの道に合流。

京路戸峠への道を見送ると、落ち葉が堆積した急斜面。足が滑って進まないよう。ロープを掴んでなんとか。

急坂が終わって、扉付きの石祠。

わずかで諏訪岳に到着。

オバチャン二人が先着。地元の方で、週に3回登ってくるのだと。凄いこってす!
日光連山は、ここ数年では最も白くなっているのではないか。

同上。

諏訪岳からは、八ヶ岳も見えました。オバチャンにも教えてあげたのだが、めずらしい事ではないらしい。
オバチャンたちは、先に下山。俺はプチ菓子パン休憩。
京路戸峠手前でオバチャンに追いつく。

京路戸峠で爺さんが上がってきた。爺さんは、毎日登山だそうだ。オバチャンらとは顔見知りとのこと。この後、80ウン歳の爺さんが登って来ると。凄いっす。
俺は、この階段にゲンナリ。爺さんも階段はイヤだと言っていた。

今回は、徹底的に巻いた。体力温存。

でも、「唐沢山0.6km→」の標識から尾根筋を丹念に辿った。
すると、土橋じゃねーの!

そして竪堀じゃね~の!

オッ、石垣か?

平坦地。これ曲輪跡じゃね~の?

オッ、堀切としか思えんよ。

唐沢山神社の縄張り図。

堀切を越えると、こんな状態の所が現れ、たぶん「鳩の峰」の曲輪と思われる。

その先に、炊事場があった。キャンプ場になっているみたい。

そして、切岸が。

北城の平坦地に到着。

北城の南側の堀切と虎口。

「杉曲輪」別名「姫御殿」

杉曲輪の土塁。横矢掛かりにも見える。

「金の丸」 建屋は青年の家か。

「長門丸」

おおっ、まだ残っていたか!

「引局(武者詰)」と土塁。

ここにも紅葉が。未練がましく写真を撮る。

「二の丸」 お正月の準備中。

唐沢山城「本丸・唐沢山神社拝殿」

本丸の高石垣。豊織期のもの。北条氏に本丸近くまで攻め込まれたことがあるが、彼らはこの石垣は見ていない。

1564年、上杉謙信の軍勢により攻められ、佐野氏は降伏し越後上杉氏の傘下に入る事になる。唐沢山城は上杉氏において、関東経営の重要拠点となる。しかし、1567年には北条氏に攻められ城をあけわたした。この時、佐野昌綱が城主に復活したが、1569年には越相同盟が結ばれ再び越後の色部氏が佐野城に入った。この越相同盟は太平山・晃石山の麓の大中寺がかかわったとも言われている。越相同盟は長くは続かす、破棄される。いろいろあって、佐野昌綱が復帰するも、その子宗綱は足利・館林長尾氏との戦いで戦死。北条氏康の子氏忠が佐野氏を受け継ぐことになる。小田原征伐後、氏忠は高野山へ送られた。
「南局(引局)」

「南城」 お決まりのポーズ。

「南城」

南城から三毳山。

南城下の「一つ目堀」

南城の切岸(左側)と帯郭(右側)。

帯郭のモミジは信じられないくらい美しかった。

帯郭から南城を見上げる。

「三の丸」

「帯曲輪」となっているが、横堀が確認できず現状は腰曲輪に見える。

ヒヒヒッ・・・、未練がましい黄葉。

ここにも。未練、未練・・・。

「神橋」と「四つ目掘り」

「大炊の井」

「くい違い虎口」 中世の城でこれほどわかりやすいくい違い虎口は珍しいと思う。石積は中世のものかはわからない。

「天狗岩」から三毳山。

「土矢蔵」 平時の御殿や根小屋があった田沼方向を見渡せる。

土矢蔵から田沼駅に向かって下る。

城見物が面白くて、長居をしすぎた。
電車の時刻に間に合うように、全力で歩く。
電車の都合で根小屋付近の見物を割愛。
電車にギリギリ間に合って、居眠りをしながら帰宅。
コース:栃木駅=栃木市営バス=村桧神社入口バス停(8:40)~大慈寺~大慈寺奥の院(9:05)~村桧神社・諏訪岳分岐・200m付近(9:20)~(9:45)諏訪岳(9:55)~京路戸峠(10:10)~鳩の峰(11:10)~唐沢山城本丸・唐沢山神社()~土矢蔵(12:35)~東武葛生線田沼駅(13:05)
諏訪岳から唐沢山城は何度か歩いたが、今回は登りを村桧神社ではなく大慈寺とした。また、前回唐沢山城で、唐沢山神社作成の「唐沢山城跡 山頂縄張図」を入手していたので、その縄張り図を手にして城跡を詳しく歩いてみたいと思った。
栃木市営バスを村桧神社入口で下車。バス停の目の前は村桧神社ではなく、大慈寺。大慈寺は栃木県で最も古い寺とのこと。

慈覚大師堂。

慈覚大師堂の左脇に奥の院への石段があった。

相輪橖。 橖の字の変換に手間取る。

小野寺稲荷。この近辺は小野寺地区というらしい。

上へ上へ歩く。観音堂。

オッ。

岩峰へ廻りこんで登って、奥の院。大慈寺探訪はここまで。

奥の院から東北自動車道と晃石山らしき山並み。

シダの生い茂る道を登る。

シダと階段道。辛いっす。

村桧神社からの道に合流。

京路戸峠への道を見送ると、落ち葉が堆積した急斜面。足が滑って進まないよう。ロープを掴んでなんとか。

急坂が終わって、扉付きの石祠。

わずかで諏訪岳に到着。

オバチャン二人が先着。地元の方で、週に3回登ってくるのだと。凄いこってす!
日光連山は、ここ数年では最も白くなっているのではないか。

同上。

諏訪岳からは、八ヶ岳も見えました。オバチャンにも教えてあげたのだが、めずらしい事ではないらしい。
オバチャンたちは、先に下山。俺はプチ菓子パン休憩。
京路戸峠手前でオバチャンに追いつく。

京路戸峠で爺さんが上がってきた。爺さんは、毎日登山だそうだ。オバチャンらとは顔見知りとのこと。この後、80ウン歳の爺さんが登って来ると。凄いっす。
俺は、この階段にゲンナリ。爺さんも階段はイヤだと言っていた。

今回は、徹底的に巻いた。体力温存。

でも、「唐沢山0.6km→」の標識から尾根筋を丹念に辿った。
すると、土橋じゃねーの!

そして竪堀じゃね~の!

オッ、石垣か?

平坦地。これ曲輪跡じゃね~の?

オッ、堀切としか思えんよ。

唐沢山神社の縄張り図。

堀切を越えると、こんな状態の所が現れ、たぶん「鳩の峰」の曲輪と思われる。

その先に、炊事場があった。キャンプ場になっているみたい。

そして、切岸が。

北城の平坦地に到着。

北城の南側の堀切と虎口。

「杉曲輪」別名「姫御殿」

杉曲輪の土塁。横矢掛かりにも見える。

「金の丸」 建屋は青年の家か。

「長門丸」

おおっ、まだ残っていたか!

「引局(武者詰)」と土塁。

ここにも紅葉が。未練がましく写真を撮る。

「二の丸」 お正月の準備中。

唐沢山城「本丸・唐沢山神社拝殿」

本丸の高石垣。豊織期のもの。北条氏に本丸近くまで攻め込まれたことがあるが、彼らはこの石垣は見ていない。

1564年、上杉謙信の軍勢により攻められ、佐野氏は降伏し越後上杉氏の傘下に入る事になる。唐沢山城は上杉氏において、関東経営の重要拠点となる。しかし、1567年には北条氏に攻められ城をあけわたした。この時、佐野昌綱が城主に復活したが、1569年には越相同盟が結ばれ再び越後の色部氏が佐野城に入った。この越相同盟は太平山・晃石山の麓の大中寺がかかわったとも言われている。越相同盟は長くは続かす、破棄される。いろいろあって、佐野昌綱が復帰するも、その子宗綱は足利・館林長尾氏との戦いで戦死。北条氏康の子氏忠が佐野氏を受け継ぐことになる。小田原征伐後、氏忠は高野山へ送られた。
「南局(引局)」

「南城」 お決まりのポーズ。

「南城」

南城から三毳山。

南城下の「一つ目堀」

南城の切岸(左側)と帯郭(右側)。

帯郭のモミジは信じられないくらい美しかった。

帯郭から南城を見上げる。

「三の丸」

「帯曲輪」となっているが、横堀が確認できず現状は腰曲輪に見える。

ヒヒヒッ・・・、未練がましい黄葉。

ここにも。未練、未練・・・。

「神橋」と「四つ目掘り」

「大炊の井」

「くい違い虎口」 中世の城でこれほどわかりやすいくい違い虎口は珍しいと思う。石積は中世のものかはわからない。

「天狗岩」から三毳山。

「土矢蔵」 平時の御殿や根小屋があった田沼方向を見渡せる。

土矢蔵から田沼駅に向かって下る。

城見物が面白くて、長居をしすぎた。
電車の時刻に間に合うように、全力で歩く。
電車の都合で根小屋付近の見物を割愛。
電車にギリギリ間に合って、居眠りをしながら帰宅。
コメント
コメント一覧
唐沢山ではいつも、麓の梅か猫たちだけみてましたので、勉強になります。
モミジもしっかり残っててよかったですね。
田沼駅までは結構あったのではないかと思いますが、お疲れ様でした~♪
モミジは散り残りがまとまってあって、意外なほど映えておりました。
唐沢山城は規模の大きな山城で遺構の残存状態もかなり良く国指定史跡になってもおかしくないレベルだと思います。明治時代に神社が建てられて、その影響からなのか指定史跡になっていないみたいですね。レストハウスと大炊の井の間に「唐沢山城縄張図」が置いてあるので、一度ご覧になっていただきたいなと思います。
田沼駅までは神社から2.5kmで平地ならちょうど30分の距離なので、さほどでもありませんでした。