行った日:2018.8.15
コース:JR小山駅(9:00)~須賀神社~小山御殿~祇園城~天翁院~思川畔~鷲城~JR小山駅(13:00)
コース:JR小山駅(9:00)~須賀神社~小山御殿~祇園城~天翁院~思川畔~鷲城~JR小山駅(13:00)
祇園城・鷲城・中久喜城は、「小山義政の乱(1380)」に関連し、一括して国指定史跡となっている。「小山義政の乱」は、複雑すぎてよくわからないのだが、関東公方足利氏満が関東の有力者小山氏の勢力削減を狙った陰謀に端を発しているらしい。結果、小山氏嫡流は滅亡、小山氏の管轄地下河辺荘(下総国)・太田荘(武蔵国埼玉郡)が鎌倉府領となる。その後、小山若犬丸の反乱に続いて行く。
小山駅を出ると、今日もギンギラギン。
まずは、須賀神社に向かおう。
まずは、須賀神社に向かおう。
須賀神社。
須賀神社は、藤原秀郷の創建と伝わる。
藤原秀郷は平将門退治で功を成し、その子孫が各地に繁茂した。
その中に埼玉郡太田荘を領有した太田氏がいる。その庶流が下野小山氏である。宗家大田氏は神人との争いが原因で鎌倉幕府より地頭職を剥奪され、歴史の舞台から消えて行った。小山義政の時代には下野南部以外にかつての宗家大田氏領太田荘(武蔵国)・同族の下河辺氏領下河辺荘(下総国)までも領有していた。
小山市役所の前を通ると、隣接して、
小山御殿。
後北条氏の時代には。ここも城郭の一部となっていたらしい。その後は、徳川氏日光参詣に折りの施設となっいたそうだ。
小山御殿解説板。
小山御殿から県道を渡ると。
祇園城入り口。
祇園城。
「小山義政の乱」では、はじめに本拠鷲城が落城、後祇園城に撤退。祇園城も落城。その後小山若犬丸により、数度にわたり祇園城を奪回するも、関東公方軍に接収される。
ややあって、結城氏流小山氏が祇園城に入り、第二次小山氏として受け継がれていった。
ややあって、結城氏流小山氏が祇園城に入り、第二次小山氏として受け継がれていった。
祇園城。本郭付近は公園化されていたが、明瞭な土塁などが残されていた。
祇園城。深い空掘り。
祇園城。深い空掘りを隔てて平坦面。
祇園城。再び、深い空掘り。
祇園城。高い土塁の脇を廻り込むと、
天翁院があった。どうやらここも城郭の一角を占めているいるように感じられる。
天翁院。小山氏墓地。小振りの五輪塔があった。
天翁院墓地の脇から奥に進むと、蜘蛛の巣だらけの平坦面となった。ここが北郭か?土塁が現れロープが張られていた。ロープに沿って進むと天翁院の裏に出た。ここにもロープが。人のいないのを確認し、ロープをくぐって脱出。ヤベ~、ヤベ~。
思川畔に出て、鷲城に向かう。
思川畔から祇園城を振り返る。写真中央付近。
国道50号を渡って、迷い気味に、
鷲城の案内板を発見。
鷲神社の参道と思われる小道を進むと、
鷲神社があった。どうやら鷲城内に入っているようだが、城跡の感じは皆無。
小山氏の宗家大田氏は鷲宮神社(埼玉県旧鷲宮町)を奉祭していた。下野小山氏も旧鷲宮町の鷲宮神社の修復に協力していた。してみると、ここの鷲神社も鷲宮神社の別宮的な神社ではないのか?下野南部には多くの鷲神社、大鷲神社の存在が確認できるが、小山氏領との関連が認められるとおもしろいのだが。
取り敢えず、鷲神社から伸びる小道を発見し、進んでみるも、蜘蛛の巣多し。やや、藪城の感覚を覚える。
「横矢」の標識を発見するも、草深くなんとも判りずらい。
鷲城。「横矢」の先にあった土塁?堀切?
鷲城。「虎口」とあるが、ここも草ボーボーで、よく判らず。
ここを下ると、藪から解放されて、綺麗に整備された小山総合公園に出た。多くの若者たちがバーベキューを楽しんでいた。
ものたらん!
と思い、再び藪道へ。
違う小道を発見し、進む。空掘りのような土塁のような所を乗り越すと、民家のある舗装道に出た。喉が渇いていた。う~ん、ここらでオヒラキとしようか。
国道50号に戻り、JR小山駅に向かった。
途中で発見したソバ屋で、お冷のガブ飲み、冷やしたぬきソバ大盛りを食って帰途に着いた。
やっぱり、城見物は冬の方がいいかなぁ~。
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