「吾妻鏡」建久5年(1194年)6月30日の条
「武蔵国大河土御厨において(久)伊豆宮神人喧嘩出来の由、その聞こえあり、驚き思し食すによりて尋
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」
2.大河土御厨
吾妻鏡にある「武蔵国大河土御厨」とはどこにあるのだろうか。
いろいろ調べてみたが、ズバリと指摘している文献にはまだ出会っていない。
おおまかに、
現在の埼玉県松伏町、吉川町、三郷市、八潮市。それに、東京都足立区東北部にあたる地域らしい。在地領主は大河戸氏。本拠地は現松伏町大河戸地区。
いろいろ調べてみたが、ズバリと指摘している文献にはまだ出会っていない。
おおまかに、
現在の埼玉県松伏町、吉川町、三郷市、八潮市。それに、東京都足立区東北部にあたる地域らしい。在地領主は大河戸氏。本拠地は現松伏町大河戸地区。

大河戸氏の館跡地と伝わる、松伏町大河戸の神明社。当神明社は伊勢神宮の祭神天照大神をまつったものである(越谷市史)
大河戸氏は、藤原秀郷流の子孫である。下野国の小山氏、埼玉郡北部太田荘の太田氏、下総国北部の下河辺氏と同族である。
大河戸氏は源平合戦で平氏側につき戦ったが、戦後赦免され領地を安堵されている。
大河戸氏は源平合戦で平氏側につき戦ったが、戦後赦免され領地を安堵されている。
1181年 大河戸広行が赦免される。
1184年 源頼朝により、大河土(御厨)が伊勢神宮外宮に寄進される。
1194年 武蔵国大河土御厨にて伊豆宮神人が喧嘩。
後日、太田荘太田行朝が、当該事件に関連して、太田荘を召し放たれる。
1213年 大河戸御厨の内、八條郷(八潮市)は式部太夫重清に与えられ、地頭職は渋江光衡に安堵 される。
1184年 源頼朝により、大河土(御厨)が伊勢神宮外宮に寄進される。
1194年 武蔵国大河土御厨にて伊豆宮神人が喧嘩。
後日、太田荘太田行朝が、当該事件に関連して、太田荘を召し放たれる。
1213年 大河戸御厨の内、八條郷(八潮市)は式部太夫重清に与えられ、地頭職は渋江光衡に安堵 される。
ん、ここでさらなる疑問が生じるのである。
松伏、吉川、三郷は下総国の葛飾郡であり、八潮は武蔵国埼玉郡であり、足立区は武蔵国足立郡である。してみれば、事件が起こったのは八潮市か、足立区なのか。
松伏、吉川、三郷は下総国の葛飾郡であり、八潮は武蔵国埼玉郡であり、足立区は武蔵国足立郡である。してみれば、事件が起こったのは八潮市か、足立区なのか。
各市町の市(町)史を見ると、越谷久伊豆神社の神人にかかわる事件としての扱いが多いのである。越谷久伊豆神社の隣接地は中世利根川の対岸下総国の吉川市、松伏町付近なのだが。
事件発生の地が武蔵国であるとすると、1213年に八條領の地頭職が「渋江光衡に安堵」された事が気にかかる。従前から渋江氏が地頭職を継承していたのか?してみると、大河土御厨には、大河戸氏と渋江氏が併立していた事になる。
渋江光衡は、武蔵七党の野与党岩槻渋江氏から出ている。後に八條五郎と呼ばれる。八潮市域は武蔵国埼玉郡の最南部に位置する。埼玉郡北部に根拠を持つ野与党が開発領主として、暫時南下してきたものと見られる。
野与党の出自は、下総平氏(または同系の千葉氏)とされる。
野与党の出自は、下総平氏(または同系の千葉氏)とされる。

八條八幡神社(埼玉県八潮市八條)。武蔵国一宮の氷川神社と久伊豆神社を合祀。古墳跡と伝わる。また近年、付近より平安時代の出土物が発見された(中川の河川工事による)。
近隣に鶴ヶ曽根の上・下久伊豆神社が二社存在する。二社が鎌倉時代に創建されたと言う記録はないが、久伊豆神社の存在は、野与党の勢力範囲であった事を物語る。

八潮市鶴ヶ曽根の下久伊豆神社。
俺の勝手な想像は、事件発生の「武蔵国大河土御厨」の地が、埼玉県八潮市であるのではないかとの妄想を生んでしまったのだ。
事件の地が、武蔵国大河戸御厨内となると、東京都足立区にも目を向けねばなるまい。そこで気になるのが足立区花畑の大鷲神社の存在である。太田荘の太田氏が信仰した鷲宮神社と何やら共通点の多い神社ではある。
大鷲神社は、綾瀬川、毛長川合流点近くに鎮座している。平安末期の成立のようだ。綾瀬川は、荒川本流の時代もあった。毛長川は、太古には入間川本流の時代もあった。中世前期の様子は俺には全く判らんが、河川交通の要衝だったかもしれんなぁ。であれば、神人たちの集住の場があったかもしれない。
大鷲神社は、綾瀬川、毛長川合流点近くに鎮座している。平安末期の成立のようだ。綾瀬川は、荒川本流の時代もあった。毛長川は、太古には入間川本流の時代もあった。中世前期の様子は俺には全く判らんが、河川交通の要衝だったかもしれんなぁ。であれば、神人たちの集住の場があったかもしれない。

足立区花畑。綾瀬川・(伝右川)・毛長川合流点。

花畑大鷲神社。「酉の市発祥」と言われる。
ただし、調査不足のせいか、大鷲神社と鷲宮神社・大河戸氏・太田氏との関連は発見できていない。これらの関連性が浮かび上がってくると、面白い展開になるのだが。
3.下河辺荘
大河土御厨の東方と北方は広大な下河辺荘と隣接する。
下河辺荘の位置もまた、はっきりとはしない。八潮市史によると、東は現在の江戸川筋、北は茨城県総和町上大野付近、西は渡良瀬川・古利根川・古隅田川のライン、南は三郷市南部を分限とするある。また、栗橋、五霞の県境から庄内古川を東限とする説もある。一方、野田市史、宮代町史などによると、他に茨城県古河市、野田市を含み東の分限は常陸川水系とあり、この説によると江戸川東岸も下河辺荘となる。大略、下総国葛飾郡北部の大半と言う事であろうか。
大河土御厨の東方と北方は広大な下河辺荘と隣接する。
下河辺荘の位置もまた、はっきりとはしない。八潮市史によると、東は現在の江戸川筋、北は茨城県総和町上大野付近、西は渡良瀬川・古利根川・古隅田川のライン、南は三郷市南部を分限とするある。また、栗橋、五霞の県境から庄内古川を東限とする説もある。一方、野田市史、宮代町史などによると、他に茨城県古河市、野田市を含み東の分限は常陸川水系とあり、この説によると江戸川東岸も下河辺荘となる。大略、下総国葛飾郡北部の大半と言う事であろうか。
下河辺荘は平安末期には成立。
事件当時は、鎌倉幕府の有力御家人下河辺行平が荘司を安堵されている。寄進先は鳥羽天皇第三皇女八條院である。
下河辺氏は大河戸氏と同様に藤原秀郷流小山氏からの分派である。早くから頼朝に組みし諸々の逸話から、頼朝の信頼が厚かった事がうかがわれる。
ただし、下河辺行平以降の代においては、史料に直接現れる事は少なくなり、下河辺氏の支配権は失われていったと思われる。なお、行平の子、行光は太田荘に住んでいたとの説がある。
事件当時は、鎌倉幕府の有力御家人下河辺行平が荘司を安堵されている。寄進先は鳥羽天皇第三皇女八條院である。
下河辺氏は大河戸氏と同様に藤原秀郷流小山氏からの分派である。早くから頼朝に組みし諸々の逸話から、頼朝の信頼が厚かった事がうかがわれる。
ただし、下河辺行平以降の代においては、史料に直接現れる事は少なくなり、下河辺氏の支配権は失われていったと思われる。なお、行平の子、行光は太田荘に住んでいたとの説がある。
荘域には、香取神社がワンサとあるのだが、下河辺氏と香取神社との繋がりは発見できなかった。
4.太田荘
太田荘の荘域も正確には判らないが、埼玉郡北部の広大な地域である事には間違い無い。
宮代町町史によると、久喜市、羽生市、加須市、騎西町、大利根町、鷲宮町、白岡町、春日部市、岩槻市、宮代町を含む広大な地域。白岡町史によると、かつて白岡町の中を流れていた日川という川を西限とする。
太田荘の荘域も正確には判らないが、埼玉郡北部の広大な地域である事には間違い無い。
宮代町町史によると、久喜市、羽生市、加須市、騎西町、大利根町、鷲宮町、白岡町、春日部市、岩槻市、宮代町を含む広大な地域。白岡町史によると、かつて白岡町の中を流れていた日川という川を西限とする。
太田荘も平安末期に成立。下河辺荘と同じく、寄進先は八條院。
荘司は太田氏。大河戸氏、下河辺氏と同様に藤原秀郷流小山氏からでている。
太田荘の総鎮守は鷲宮神社である。宮代町史によると、鷲宮神社の分布は日川を越えて西には無いとの事。日川が埼玉郡北部を東西に分ける。西は野与党支配領域であり久伊豆神社信仰圏である。
鷲宮神社は本家下野小山氏の信仰も厚く、小山氏「由緒の地」とされ、社殿再興に致力したりしている。
荘司は太田氏。大河戸氏、下河辺氏と同様に藤原秀郷流小山氏からでている。
太田荘の総鎮守は鷲宮神社である。宮代町史によると、鷲宮神社の分布は日川を越えて西には無いとの事。日川が埼玉郡北部を東西に分ける。西は野与党支配領域であり久伊豆神社信仰圏である。
鷲宮神社は本家下野小山氏の信仰も厚く、小山氏「由緒の地」とされ、社殿再興に致力したりしている。
八潮市史から、事件後に太田荘を召し放たれた「太田行朝は、大河戸行広の子にあたる人物である」との記述を発見。
ムムムッ・・・。
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