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行った日:2011.7.21
目的地:川越城本丸御殿、東明寺
コース:川越市駅~時の鐘~川越城本丸御殿~川越市立博物館~東明寺~川越市駅

川越城本丸御殿の改修工事が終わって久しい。行こう、行こうと思いつつ、なかなか行けなかった。

台風はそれた。が、天気は思わしくない。昨日までの暑さがうそのようだ。北東の風が吹いている。また放射能を運んで来るのかな。山はやめて、川越城に行ってみよう。
「小田原北条記」を読みながら、電車に揺られた。

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休日とは違い、閑散としている。

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空は曇っている。涼しい。

川越高校のテニス部か、野太い声をはりあげて練習にいそしんでいる。高校の裏手に川越城本丸御殿がある。

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本丸御殿も閑散としている。

本丸御殿入場料100円。市立博物館と蔵の何とかとのセットで300円。

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悪代官が何やらよからぬ事を相談している。たぶん、この後に越後屋が現れるはずである。

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「椿三十郎」を思い出してしまう。

若侍(加山雄三、青大将、他)達が、家老の悪だくみを阻止しようと江戸在勤の筆頭家老留守宅屋敷で談合をしている。押入れからはトボケタ感じの悪家老派の家来(千秋実)が顔を覗かせる。三船敏郎はジャリひげをさすりながら庭を眺めていた。

悲しいかな、リメイク版の「椿三十郎」は・・・・。

改修工事がされたと言っても、以前と変わった所は無い。ただ、畳の臭いが青かった。

本丸御殿を出て、ハス向かいの川越市立博物館へ行った。「職人尽絵」に引き込まれる。同じくオバサンが引き込まれている。おいらもオバサンも、長い職人尽くし絵の前を行ったり来たり。う~ん、一人で見たかった。オバサンも同じ思いか?

博物館のバス停前の地図で東明寺の位置を確認。頭に叩き込んで出発。

東明寺は、「川越の夜戦」で最も激戦となった場所だ。江戸時代、明治時代に大量の髑髏が出土しているそうだ。

北条綱成の父親は、元今川家の家臣福島正成である。福島正成率いる今川軍は甲斐の国に侵入。武田信虎軍と激突し、敗れた。孤児となった綱成は、北条氏綱に引き取られ育てられた。(異説多数あり。)

天文14年、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏連合軍は、関八州の大名を糾合し8万の大軍で川越城を囲んだ。この時の城代が北条綱成であった。はりきらずにはいられなかったろう。
連合軍側は、さらに今川義元を引き入れた。今川勢も時を同じくし、北条方の長久保城(駿河東部)を包囲した。北条氏康は、長久保城の救援に向かった。従って、川越城3千の兵は孤立無援の状態となったのだ。
しかし、何を考えていたのか、8万の大軍は3千人の籠もる川越城を攻める気配は無い。兵糧攻めなのか。
そうこう、しているうちに、氏康は武田氏に今川氏との和睦の斡旋を依頼した。今川義元も関東連合軍のもたつきに呆れたのか、斡旋を受け入れた。氏康は長久保にいくらかの兵を残し、8千の兵で川越に急行した。

天文15年4月、それまで弱腰のふりをしていた氏康は、突如関東連合軍に夜襲を仕掛けた。弛みきった関東連合軍は、総崩れとなり扇谷上杉朝定が討ち死にし、連合の労をとった難波田弾正は東明寺近くの古井戸にはまり溺死してしまった。山内上杉憲政、古河公方は自城に逃げ帰った。
その後上杉憲政は、何を思ったのか、再び北関東の兵をかき集め碓井峠を越えた。武田氏家臣板垣信形軍に散々に打ちのめされ、間も無く上野の地を去る事になる。そして、完全に関東の地から上杉氏の姿は消えたのだ。


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東明寺門前。かつて、広大な寺域を有していたようだ。現在は、民家に囲まれている。

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東明寺の境内にある。


門前を過ぎると本堂がある。というか、本堂しか無い。

昔の戦場の面影は全く無かった。
少しだけ人の増えた蔵の道を歩き、帰途に着いた。



なお、
福島正成の名は、今川家関連の古文書には現れないそうである。

また、川越の夜戦も実在が疑われている。ただ、人骨の大量出土はあったようなので、なんらかの合戦が東明寺付近であったのだろう。