カテゴリ: 久伊豆神社と野与党

昨年のコロナ緊急事態宣言中、暇をもてあまして、水木しげるの「神秘家列伝」をゴロ寝をしながら読んでいると、「天狗小僧寅吉」にいきあたった(その時の記事は、本ブログ・アーカイブ「2020年5月」を参照願います。)。

内容は、
江戸の少年寅吉が天狗の親玉杉山僧正と出会い、空中を飛んで常陸国の難台丈という山へ赴く。そして岩間山で天狗の修行に励むというもの。
ややあって、寅吉の存在を幕末の国学者平田篤胤の知る所となる。平田篤胤らによって聞き取り調査が行われ、それを「仙境異聞」という本にまとめられた。というもの。

「仙境異聞」は近年、複数の会社から出版されたらしく、そこそこの売り上げだそうだ。俺も近所の本屋で「仙境異聞」を捜した。そうしたところ、「角川ソフィア文庫;天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞」を手にする事ができた。

読み始めて、初めの方の寅吉の身の上話や岩間山の話は面白く読めたのだが、平田篤胤から寅吉への異界などの質問とその応答のやり取りが、なんとも虚しいものに感じられ、読み進めるのがつらくなってしまった。
要は、寅吉少年は大ホラ吹きなのである。平田篤胤の友人の中には篤胤を諌める者もあったようだが、多くは篤胤とともに熱心に寅吉の話に聞き入るのだった。



ただ、寅吉少年がホラばかり吹いていたわけでは無い。一番初めに天狗の親玉杉山僧正につれて行かれた南台丈(難台山:茨城県笠間市(旧岩間町))に「獅子ヶ鼻岩」がある事を指摘している。獅子ヶ鼻は確かに現存している。そしてかなりローカルな存在である。この事は寅吉少年が、実際に南台丈に行ったことがあるか、もしくは南台丈に熟知した人から獅子ヶ鼻の事を聞いたと推察される。
そして、南台丈(難台山)は吾国山と加波山の間にあるという。これは一般的におかしな話で、実際には難台山の隣に吾国山があり、難台山~吾国山の連嶺と谷を隔てて加波山があるのである。しかし、岩間山での修行から江戸に帰る途中、「大宝村の八幡宮」に寄るように師匠から言われているのである。大宝村の八幡宮とは現在の下妻市の大宝八幡宮であろう。すると、帰途のルートは岩間山(現在の愛宕山)から現在の桜川市に出て加波山~筑波山の西麓から下妻、大宝村へと歩いたと考えられるのである。このルートであれば桜川市~下妻市のどこからか難台山が加波山と吾国山の間に見える所があるかもしれないのである。


桜川市高峯から。左に難台山、その右に吾国山。だと思う。
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桜川市高峯から。上の写真の右側。地元の爺さんの話では、正面の山が加波山だそうだ。
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上2枚の写真は、左から難台山、吾国山、加波山の順に並んでいる。しかし、もう少し下妻市、大宝村方向に移動した所からは難台山が中央に見えるような所があるかもしれない。
本の訳者注には山の位置関係がおかしいと指摘があるが、下妻あたりからは、難台山が中央に見えるかもしれない。


本の半ばに「越谷降臨の記」という項がたてられている。
寅吉が平田家に逗留中に病にかかり伏せっている折、寅吉がうわごとのような声を発しだし、その声がしだいに大きくなってくる。声音は寅吉のものではない。篤胤の妻折瀬が「あなた様は寅吉の先生でいらっしゃいますか」と聞くと、「そうだ」との返事。そして、「久伊豆様もここにいらっしゃるのだ」と。
    ムムムッ・・・・。まさか、久伊豆様が出てこようとは・・・。
久伊豆様とは久伊豆神社の祭神のことであろう。久伊豆神社は旧埼玉郡の元荒川と綾瀬川に囲まれた地域のみに分布する超ローカルな神社である。このローカルな神様の事を江戸に住む子供が知っているのだろうか。
そこで、繋がってくるのが大宝村である。江戸から埼玉県の中川縁を経由して栃木県の喜連川まで「下妻街道」なる古道が存在する。大宝八幡宮を経由して江戸に帰った寅吉が越谷久伊豆神社に立ち寄ることは可能なのである。
そして、大宝八幡宮に現存する梵鐘は武蔵国崎西郡(埼玉郡の一部の俗称)渋江郷平林寺のために1387年に鋳造されたものであり、多賀谷氏の戦利品として1577頃に寄進されたものである。多賀谷氏とは、もともとは平安時代末期より埼玉郡に勢力を持つ武蔵七党の野与党の一族であった。野与党は久伊豆神社を奉祭し、野与党と久伊豆神社は密接な関係にある。多賀谷氏は、後に下総結城氏の傘下に入り、戦国末期には独立した姿勢を示すようになり、常陸の小田氏を圧迫するようになる。
という事で、久伊豆様と大宝八幡宮が寅吉の足跡によってかすかに繋がるのである。


大宝八幡宮。社域は大宝城内にある。大宝城は南朝方として戦ったが、落城。
DSC03527大宝八幡宮



しかし、実は、越谷久伊豆神社と平田篤胤の関係は以上の話とは比べものにならないほど濃密なものだったのである。
平田篤胤は43歳で越谷宿の油商人山崎篤利の養女と再婚している。篤胤は出版などに関して山崎篤利から経済的支援を受けていた。さらに山崎篤利らの支援によって越谷久伊豆神社の社域に草庵をむすんでいたのである。


越谷久伊豆神社。
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久伊豆神社の庭。下の写真の鳥居の右側に標柱が立っている。これが「平田篤胤の寓居跡」の標柱。
DSC02597平田篤胤仮寓跡



「平田篤胤の寓居跡」の標柱。
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平田篤胤の門人らによって久伊豆神社に寄贈された藤。
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春の様子。もう少し房は大きくなる。
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平田篤胤が仮住まいを構え越谷久伊豆神社に滞在していた。また、越谷宿の人々から厚遇を受けていた。してみると「越谷降臨の記」の部分は、平田篤胤の筆が滑り久伊豆様を登場させてしまったのではないか。とのかんぐりを生じさせてしまう。


さて、寅吉は本当に常陸国の難台丈や岩間山で天狗の修行をしたのだろうか。かなり怪しい。
寅吉が平田家に「これから岩間山へ行く。」と暇乞いに訪れた。篤胤は弟子の五十嵐対馬が下総香取郡笹川村に帰るという事で、寅吉を笹川村から筑波山麓へ送りとどけるようにと言い含めた。寅吉は笹川村で何日か逗留していた。いざ五十嵐対馬が「筑波山まで連れて行ってやろう」と言うと、寅吉はいつのまにか行方知れずとなってしまった。10日程後に笈箱を背負った寅吉が平田家に戻ってきた。なんでも師匠が山廻りのくじ番を当てて今年の寒行は休みになったのだと。やはり怪しい。
とは言え、笈箱を背負って戻ってきたとなると、少なくとも修験者との交流があったのだろうと思われる。そして岩間山の十三天狗の話なども事細かく知っていた。江戸に住む少年が、非常にローカルな話題に精通している事は、不思議な事である。

そして、平田篤胤が異境地岩間山を訪れたふしが無いのも不思議なことである。



暇をもてあまし、そんな事を妄想する今日この頃であった。






行った日:2017.7.16
コース:東武伊勢崎線加須駅=バス=騎西総合支所バス停(9:00)~玉敷神社~戸崎城(加須市戸崎・竜宝寺・諏訪神社)~道智氏館跡(加須市道地・成就院)~多賀谷氏館跡(加須市内多賀谷中郷・多賀谷神社・大福寺)~花久の里(鴻巣市関新田)~種垂城(加須市上種足)~上種足バス停(14:00)=バス=加須駅


古代~中世、埼玉郡を2分する日川=新川=にっかわ=騎西領用水は本当に同じものなのか?
現在消滅している日川を境に左岸が太田荘領域、右岸が通称騎西郡・野与党、久伊豆神社領域と考えられる。現在、日川筋に騎西領用水が流れているとされるが、騎西領用水左岸に「道地」などの野与党系の地名がある。また玉敷神社・久伊豆神社と関連が深いとされる「龍花院」が騎西領用水の左岸に存在する。
日川は、加須市北部域では現在の騎西領用水よりももっと北側を流れていたのではないかとの疑問をいだきつつ、騎西領用水近辺の城跡を巡ってみた。


体力温存のため、加須駅から「鴻巣駅行き」のバスに乗った。騎西総合支所で下車。多分旧騎西町の役場前なのだろう。そのまま真っ直ぐ進んで、


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まずは、久伊豆神社の総元締、玉敷神社。



玉敷神社の裏手から小道に入り、国道122号線に出た。国道を北上。


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騎西領用水。


騎西領用水を渡ってすぐに「道地交差点」。ここをなおも北上。右手の田園の奥に、


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ムムッ、あの森があやしいねぇ~。



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加須市戸崎。あったあった。竜宝寺・戸崎城跡。



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竜宝寺の案内板。


ここから南東側に諏訪神社があり、こちらに移動。


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加須市戸崎。諏訪神社・戸崎城跡。


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諏訪神社案内板。



戸崎城は竜宝寺~諏訪神社一体を含む南北400mの規模の城と推定されている。吾妻鏡に戸崎国延の事績が記載されているが、消息、子孫等については一切不明との事。野与党系図にも登場しないし、太田荘との関わりも不明である。

当地の風景は全くの田園地帯で、城跡の形跡はない。昭和の初期に田地化されたようだ。ただ、竜宝寺から諏訪神社にかけての田地が廻りより一段高い位置にあるのは容易に判った。田にはポンプでジャンジャン揚水されていた。


さて、お次は道智氏館跡に向かおう。
便意を催しながら、クソ暑い中を歩く。


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途中の道すがら、こんな標柱をみつけた。道地氏がかかわった鍛冶屋敷か。道智氏館跡は近そうだ。



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加須市道地。道智氏館跡・成就院。


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成就院の板碑。この他にも小振りなものがいくつかあった。



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成就院案内板。


野与党道智氏館跡は、騎西領用水の左岸側にあった。周辺は、この辺りにはめずらしく畑地であった。あきらかに微高地である。肝心の城跡の様子は微塵も感じられなかった。板碑の存在だけが、中世の在地領主の存在を感じさせるものであった。


騎西領用水を渡り、勘で小道に入ると、


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加須市内田ヶ谷。多賀谷神社。



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多賀谷神社案内板。



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多賀谷神社のそばから、東を見る。



多賀谷神社から東進すると、



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加須市内田ヶ谷。大福寺・多賀谷氏館跡。



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大福寺の板碑。かなり大型。


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大福寺案内板。


多賀谷氏の出自に関しては、2説ある。
一つは、鎌倉幕府御家人金子十郎家忠が源頼朝から私市(きさい)荘を与えられ、その子金子家政が居住地の多賀谷を名乗った。
一つは、野与党道智頼基の三子、光基が多賀谷を名乗りその子多賀谷重光の代に金子家政を養子として迎えた。

なお後年、苦林の戦い(1352)の恩賞として結城直光は私市荘を足利尊氏から賜った。その際、多賀谷氏は結城氏に帰属し常陸、下総で活躍する事となり、戦国時代には常陸下妻で大名化していった。


多賀谷氏館跡はやはり田園風景の中の微高地に位置していた。ここも城跡の様相は全く感じられなかった。
「埼玉の城址めぐり」を読み直してみると、
なんと城域は騎西領用水の北側にまで及んでいたとの記述を発見。それは、やはり騎西領用水の流れが江戸期に新規に堀作された事を意味するのか。ならば鎌倉時代には日川は別の所を流れていたのか。


とりあえず、騎西領用水に戻り、上流に向かった。
このころより、異常に暑くなりはじめた。


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加須市上崎。騎西領用水の取水口。先は見沼代用水。


見沼代用水を渡って鴻巣市関新田に入る。昼飯を食おうと目論んでいた「花久の里」に到着。ここで「川幅うどん」なるものを食いたかったのだ。しかし、食堂に入ると満員で、アキ待ちの人々が並んでいた。おれは混んでいる食堂が大嫌い。アッサリ諦めた。隣の建屋で売っていた菓子パンを食ってオサラバ。


さて、お次は種垂城に向かおう。
クソ暑い中、水をガブガブ飲みながら見沼代用水を下流に向かう。
再び加須市に入り榎戸で南進。

種垂城は中々見つからなかった。
スイカを売っている爺さんに道を聞いた。
「そこを右に行って、左に行って、右側だよ。だけど何にも無いよ」「何にも無くていいんですよ。ありがとう」

爺さんの言う通り歩いても判らなかったが、もう至近距離だろう。辺りを見回して、こんもりした森を見つけ行ってみると、



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加須市上種足。種垂城跡。公園化していた。城跡の感じはまるで無し。


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種垂城案内板。


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種垂城跡の裏手には、広大な田園が広がっていた。



種垂城は菖蒲城の佐々木氏築城し、その後忍の成田氏の配下になった。その後、小田氏が入り、小田氏2代め小田顕家は種垂城から騎西城に移る。隠居後、再度種垂城に戻った。

この小田氏とは、常陸小田(八田)氏と同族である。


あ~ぁ、疲れた。鴻巣駅まで歩くつもりでいたが、もう無理である。汗をかき過ぎた。ズボンまで汗が染みて黒くなっている。バス通りに出ると、折よく加須行きのバスが10分待ちでやってきた。

バスのクーラーにあたって、ようやく人心地がついた。
そういやぁ~、タイトルは城巡りだったが、4城も巡って城跡の片鱗も無かったなぁ~。

行った日;2017.6.24
目的地:清久氏館跡(久喜市上清久:雷電神社、常徳院)、粟原城(久喜市鷲宮;鷲宮神社)
コース:東武伊勢崎線久喜駅=バス=高木病院前バス停~道迷い~清久氏館跡~粟原城跡(鷲宮神社)~東武伊勢崎線鷲宮駅


日光の山に行こうと早起きをしたが、どうも気乗りがしなくなった。こんな日もある。
家でゴロゴロしていると、腰が痛くなる。どこかに行かなければ、との強迫観念のようなものに襲われる。


捻り出したのが、清久氏館跡の探訪だった。
「デカマップ埼玉」を見ていると、清久氏館跡から歩いて旧鷲宮町の鷲宮神社(粟原城跡)に行けそうである。

清久次郎秀行の活動は吾妻鏡の記述から知られる。源頼朝の初上洛や奈良東大寺落慶供養の折に随行している。
清久次郎秀行(久喜市清久)は太田荘太田行尊の子孫大河戸行方の次男である。長男は大河戸広行(大河戸御厨)、三男高柳行基(栗橋町または加須市)、四男葛浜行平(加須市、騎西町)。いわゆる藤原秀郷流太田氏の一族とされる。
しかし、俺は多少の疑問をもっていた。太田氏系であれば、騎西領用水(新川、旧日川)左岸に割拠しているはずであるが、久喜市清久は騎西領用水の右岸に位置するのである。右岸は崎西郡になり野与党の領域となる。まぁ、素人の考えなので旧日川の流れが、現在の騎西領用水とは完全には一致していないのかな、などと思っていた。
ところが、「埼玉の城址めぐり」を読み直してみると、「久喜市史調査報告書・第二集[清久村郷土史]に「・・・源平の時代、野与党の一族に清久次郎(清久山城守)がおり・・・」の記述を発見。おおっ、やっぱりそう考える御仁がおったかぁ~、と、なぜか安心したりするのである。

久喜駅から「菖蒲仲橋」行きのバスに乗り、「高木病院前」バス停で降りた。



道に迷った。みつからん。「デカマップ埼玉」だけでは無理があった。
県道を行ったり来たり。犬に吠えられる。
仕方ない、農作業の方に雷電神社の位置を聞いてみようと脇道に入ったら、神社らしきものを発見。



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久喜市上清久・雷電神社、清久氏館跡。


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雷電神社、清久氏館跡。


やっとみつけた雷電神社であったが、住宅地が浸食してきており神社としてはややお寒い状況であった。また、残念ながら中世の館跡の雰囲気は微塵も感じられなかった。
お隣の常徳院に移動。


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常徳院。雷電神社から徒歩2分。


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常徳院、清久氏館跡。


白幡山常徳院と雷電神社は神仏習合による一体のものであったが、明治初年に神仏分離令により境内を二分したそうだ。


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常徳院にて。


常徳院もまた、中世館跡の雰囲気は全くなかった。ただ、周辺の田地とは比高1~2m位の微高地にある事はすぐに判った。

常徳院のガラス付きの案内には清久氏の系図が張り出されていた。写真を撮って後でみればいいやと思っていたが、家で写真を見るとガラスが反射して全く読みとれなかった。ガクッ。


所で、県道を挟んで、「赤旗神社」なるものがあった。常徳院は「白幡(白旗)山常徳院」である。地元伝承では、この近辺で紅白の戦いがあり、赤旗=平、白旗=源で、白旗の勝利となり、清久氏の治めるところとなった。
清久氏は執権北条氏の滅亡とともに滅びた。



さしたる成果も得られず、県道12号を北上。
騎西領用水を渡ると、(旧)鷲宮町の住居標示となった。ここからほぼ太田荘領域と思っていいのではないか。などと、生意気な事を頭に浮かべつつ、大汗をかいて歩いた。

東武鉄道を跨線橋で渡り、左折。青毛掘川に沿って歩くと、大きな森が見えだした。



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鷲宮神社に到着。


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鷲宮神社神楽殿。



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鷲宮神社、粟原城跡。ここも城跡の感じは皆無。


鷲宮神社は鎌倉期以降、多くの武将たちの崇拝をあつめた。徳川家康からは400石の社領を受けていた。ちなみに武蔵国一宮大宮氷川神社の社領は100石であった。
鷲宮神社が粟原城としていつ頃から機能したかは判っていないが、上杉謙信が小田原城を包囲した折に、上杉方の羽生城主木戸氏によって粟原城は焼き落とされた。従ってこの頃は、小田原北条氏の傘下に入っていたものと思われる。

この後、お隣の花崎城に行くつもりであったが、いつもの如く、もういいかぁ~と思い、クーラーの利いた電車に乗り込んだ。

行った日;2016.10.2


埼玉県宮代町姫宮に、埼玉郡百間(もんま)領総鎮守姫宮神社がある。一説によると延喜式記載の宮目神社ではないかと言われている。

一方で、加須市騎西の玉敷神社内の摂社宮目神社を式内社宮目神社に比定する説がある。

埼玉郡の太田荘域を除く通称崎西郡に濃密に分布する久伊豆神社の本家本元は、玉敷神社である事は通説として知られている。が、八潮市史によると、久伊豆神社の前身は玉敷神社内にある摂社宮目神社と考える事が妥当であるとの説である。

ところが、宮目神社自体は論社とされ、いずれが延喜式記載の宮目神社であるかは結論がでていないようだ。


とりあえず、久伊豆神社関連の神社として、一度は見ておこうではないの。



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姫宮神社参道。東武スカイツリーライン姫宮駅から徒歩15分ほどの所にあった。




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桓武天皇の孫宮目姫伝説かぁ~。



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姫宮神社。右手の低い森は古墳。



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姫宮神社拝殿。



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姫宮神社脇にある比高2mの古墳。周囲からは埴輪が発掘されていると。八幡社が祭られている。


古墳の所で藪蚊の大群に襲われ、退散。
腕や首筋を掻きながら、姫宮駅に戻った。


この地は中世の太田荘域と思われ、久伊豆神社の前身→姫宮神社→宮目神社とは、考えにくいのぉ~。


たいそうらしく、姫宮神社に行ってはみたものの、何も新しい事は発見できなかった。

行った日;2016.9.25
コース:東武岩槻駅=バス=岩槻区裏慈恩寺バス停(8:30)~岩槻区上野5・元荒川、日川推定合流点~岩槻区古ヶ場~蓮田市黒浜・伊豆島自治会館~岩槻区古ヶ場~岩槻区鹿室・県道154~蓮田市江ヶ崎馬場~保福寺~白岡市実ヶ谷~白岡市千駄野・総合運動公園・県道78~白岡市役所~白岡市寺塚~白岡市高岩~白岡市野牛・JR新白岡駅西口~久喜市太田袋~隼人掘川渡る~久喜市下早見備前前掘川渡る~久喜市北青柳・江面一小~久喜市江面・南中~東武久喜駅(14:30)


専門書を見ても、中世の武蔵・下総の国境の記述はまちまちだ。しかし、国境に絞った論述に限れば、おおよそ、古利根川~古隅田川~元荒川~中川説が圧倒しているように思う。

ところで、下総国に隣接する武蔵国埼玉郡は、崎西郡とか騎西郡の記述をしばしば見るのである。崎西郡の呼称は正式名称ではなく、通称らしい。白岡町史などによると、埼玉郡のうち、太田荘を埼玉郡と呼び、現在は消滅してしまった日川以西を崎西郡と呼ぶらしい。日川を境に太田荘・太田氏支配領域と野与党支配領域に分けられるとの説である。

俺は、「日川」を「ひかわ」と読んでいたのだが、前回、騎西領用水=新川を歩いた際、「新川」は「にっかわ」であることを知った、そして「日川」は「にっかわ」であろうと突如的に思いついたのである。白岡町史を読み直すと、日川は、おおよそ現在の新川(にっかわ)に沿って流れていたとの記述を発見したのであった。

そこで、「でっか字まっぷ・埼玉」をながめ、騎西領用水の流れを加須市域から追ってみた。途中、川記号の青線は途切れがちではあるが、行政区画境界などを手掛かりに、なるべく自然に青線を繋ぐ試みを行った結果、日川は岩槻区上野5丁目付近で元荒川と合流しているのではないか、との結論にたっした。

かなり怪しい結論である。
武蔵・下総国境すら確実に決定されていないのに、崎西郡境が素人に判るはずはない。が、まぁ、素人のあつかましさがなせるワザであろう。

ヒマな俺は、自分勝手な「日川」推定流路を辿る旅にでた。



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岩槻区上野5丁目。俺の勝手な日川・元荒川推定合流点。なんか、きったならしなぁ~。



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岩槻区上野5丁目。上の写真の上流側。ほぼドブ川。


推定日川・元荒川合流点の推定日川は、ほとんどドブ川であった。まぁ、古綾瀬川旧流路はもっとワビシイものだったので、この程度の事ではくじけませんワ。


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岩槻区古ケ場。遠くに蓮田市の江ヶ崎の半島状が見えた。江ヶ崎には久伊豆神社があり確実に崎西郡である。あの半島状の微高地の後ろに黒浜沼があるはずである。そこにも黒浜久伊豆神社がある。


近くに居たオッサンに、この流れの名称を聞いたが、「知らん」とのお言葉を頂いた。


一旦、元荒川の堤に出て、蓮田市黒浜の「伊豆島自治会館」を目指す。ここは以前から気になっていた所。名称から同じ敷地内に久伊豆神社があるのではないかとニランでいたのである。が、そこにはそんなものは無く、「土地改良区」の大きな碑があるだけだった。

戻る。

流路に沿った道が途切れ、近くの八幡社を迂回して、再び細い流路に戻る。


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蓮田市江ヶ崎の南部。


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流路を追う道が失せ、岩槻区鹿室付近を徘徊。江ヶ崎の半島は間近だ。


流路を追う道が失せ、岩槻区鹿室から蓮田市江ヶ崎馬場に向かう。



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蓮田市江ヶ崎馬場近くの⑦の裏手に、「江ヶ崎城」の碑が。ここから200mとあったが、今日は向かう余裕はない。



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蓮田市江ヶ崎付近。みー猫さんのようには撮れない。


蓮田市江ヶ崎の保福寺の裏手を大迂回して、推定日川に戻ろうとしたが、これが日川であろうとの流れは発見できず。
ただ、東西に微高地があり、かつてここに明瞭な流れがあってもおかしくはあるまいと、思い込む。


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白岡市実ヶ谷付近。


白岡市千駄野総合運動公園で県道78号線に出る。白岡市役所を左手に見送り、隼人掘川を渡り東北自動車道をくぐると、白岡市寺塚。


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白岡市寺塚付近。東北道をくぐる所に窪地が。流れは無いが、この辺りが怪しい。


再度、東北道をくぐって、白岡市高岩へ。さらに東北本線を渡って、JR新白岡駅西口(白岡市野牛)に出た。このあたり、流路を完全に見失っている。
やや道に迷い気味に久喜市太田袋を出た。


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久喜市太田袋付近。にて。


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久喜市太田袋。ここに、「埼玉郡騎西領下早見村」の石柱があった。


ん、「太田袋」の地名からは「埼玉郡太田荘」を連想していたのだが・・・。
しかも、下早見地区は、俺の想定では崎西郡ではなく、埼玉郡太田荘側だと思っていたのだ。

しかし、目の前に備前前堀川が現れ、さらにその数m先に、勢いの良い流れを発見。


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久喜市太田袋・下早見・北青柳の三町境界。備前前堀川。


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上の写真の数m先にも流れが。


備前前堀川の数m先の流れのそばに、軽トラックが停まっており中にオバサンが居たので、この細い流れの名称を聞いた所、「家の前の川」だそうだ。「ありがとう」と言って去ろうとすると、軽トラから降りてきて、「チョットまってて」と小走りに走り出した。その先にコンバインに乗ったオッサン。
戻って来たオッカサンによると、「ニッカワだって」と。ムフフフ・・・。


ついに、「日川、新川、ニッカワ」を発見。なるべくニッカワに沿って歩く。久喜市江面一小付近で迷う。再び流路を発見し、「騎西領用水」の標示を確認。


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久喜市江面付近の騎西領用水=日川=新川。


久喜市江面の南中前で、もうこの辺でよかろうと。
東武久喜駅に向かった。


今回歩いたルートが日川の流路であるかと言えば、はなはだ怪しい。特に前半は。


しかし、久喜市太田袋・北青柳・下早見の境界で騎西領下早見村の石柱の発見は嬉しかった。ただ、下早見村が騎西領(崎西郡)だとすると、現在の騎西領用水=新川の流路と日川の流路が異なる事になる。
石柱は、おそらく近世のものだろう。近世騎西領と中世崎西郡は同義語なのだろうか。
現代の下早見町と近世下早見村は同じなのだろうか。
またまた、謎が深まってしまった。

まぁ、俺のポンコツ頭では、永久に謎だろうねぇ~。いや、謎そのものを近い内に忘れるのだろうね。

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