2018年08月

イメージ 1




行った日:2018.8.26




イメージ 2
安行弁財天に行ってみると、少しだけ咲いていた。




イメージ 3
弁財天。




イメージ 4
興禅院。




イメージ 5
興禅院。



イメージ 6
興禅院。



イメージ 7
興禅院。



イメージ 8
植物振興センター。




ギンギラギンの太陽に耐えられず、早々に退散。

山行日:2018.8.19
コース:東武日光駅=バス=霧降高原バス停(8:10)~大山(9:30)~マツクラ滝~玉簾ノ滝~道迷い~丁字滝~ツツジヶ丘~霧降滝観瀑台~霧降の滝入り口バス停(12:40)~東武日光駅(13:10)


35℃越えの日々は終わった。明日は出勤だし、軽い山歩きはないものかと考えた。
思いついたのは、霧降高原だった。女峰山様に登るつもりはハナから無い。あくまでも軽く、大山から霧降の滝まで歩こうと思った。
本コース小学生の時に歩いて以来。歩く前の記憶は、沢筋にカエルの卵やらオタマジャクシを大量にみて、背丈を越える笹の中のグチャグチャ道を歩いた事。
50年ぶりに歩いた結果、道迷いもあったが、小学生の頃の記憶とはまるで違う世界が広がっていた。


終点の霧降高原でバスを下車。レストハウス前の自販機で缶コーヒーを購入。煙を吹かせながら缶コーヒーを飲んだ。缶捨て場なし。ああっ、日光の自販機には缶捨ては併設されてなかったよな。空き缶をリュックにブッ込んで出発。



イメージ 1
本コース、ほとんど山下りに近い。歩き出しの森。涼しいので、薄い長袖の上着を着用。



沢を渡って、少し登り加減になると、



イメージ 2
草原に出た。どうやら牧場の一角に出たようだ。


草原をユルく登ると、


イメージ 3
大山に到着。正面に女峰山様(赤薙山?)



大山の登りで、少し汗をかいたので上着を脱いだ。煙をバキュームして、菓子パンを食う。誰も居ない。あまりの気持ちよさに長居をしてしまった。



イメージ 4
大山の下りにて。後方を振り返る。



イメージ 5
大山を下る。



イメージ 6
大山を下る。左から鳴虫山・滝ヶ原峠・夕日岳・薬師岳・細尾峠・茶の木平。



イメージ 7
なんとも気持ちの良い所。



イメージ 8
大山を振り返る。



猫の平と言う所から、森に入り、滑りやすい下りとなる。



沢音が聞こえて、



イメージ 9
マツクラ滝。



イメージ 10
マツクラ滝。



イメージ 11
マツクラ滝。



イメージ 12
マツクラ滝。



ところで、マツクラ滝?、真っ暗滝?今までは真っ暗滝と思っていた。


続いて、


イメージ 13
玉簾ノ滝。



ここから道に迷った。
進むべき方向に「廃道」のロープがあった。道を間違っていないかと、マツクラ滝の方に後退するも、霧降滝に向かう道を発見できず。「廃道」標示の所へ戻る。そこには「丁字滝→」があった。丁字滝には行くつもりは無かったが、しかたない、丁字滝に向かう。



イメージ 14
丁字滝。


丁字滝からなおも登ると林道が現れて、左折。しばらくするとバス道「隠れ三滝バス停」にでた。脇に登山道があり南進。ツツジが丘と言う所に出た。ここに案内板があり、玉簾滝~霧降滝間が廃道と出ていた。


少し進んで霧降滝観瀑台。



イメージ 15
霧降滝観瀑台より。



小学生の時見た霧降の滝は、間近から見たような気がする。俺の記憶違いか?死んだオヤジに聞く訳にもいかない。


バスの時刻を見ると、ほぼ1時間待ち。
道路には「日光市街3km」とあった。う~ん、歩くか。

東武日光駅は、思ったほど遠くはなかった。

行った日:2018.8.15
コース:JR小山駅(9:00)~須賀神社~小山御殿~祇園城~天翁院~思川畔~鷲城~JR小山駅(13:00)



祇園城・鷲城・中久喜城は、「小山義政の乱(1380)」に関連し、一括して国指定史跡となっている。「小山義政の乱」は、複雑すぎてよくわからないのだが、関東公方足利氏満が関東の有力者小山氏の勢力削減を狙った陰謀に端を発しているらしい。結果、小山氏嫡流は滅亡、小山氏の管轄地下河辺荘(下総国)・太田荘(武蔵国埼玉郡)が鎌倉府領となる。その後、小山若犬丸の反乱に続いて行く。



小山駅を出ると、今日もギンギラギン。
まずは、須賀神社に向かおう。


イメージ 1
須賀神社。


イメージ 2
須賀神社は、藤原秀郷の創建と伝わる。



藤原秀郷は平将門退治で功を成し、その子孫が各地に繁茂した。

その中に埼玉郡太田荘を領有した太田氏がいる。その庶流が下野小山氏である。宗家大田氏は神人との争いが原因で鎌倉幕府より地頭職を剥奪され、歴史の舞台から消えて行った。小山義政の時代には下野南部以外にかつての宗家大田氏領太田荘(武蔵国)・同族の下河辺氏領下河辺荘(下総国)までも領有していた。


小山市役所の前を通ると、隣接して、


イメージ 3
小山御殿。


後北条氏の時代には。ここも城郭の一部となっていたらしい。その後は、徳川氏日光参詣に折りの施設となっいたそうだ。



イメージ 4
小山御殿解説板。



小山御殿から県道を渡ると。



イメージ 5
祇園城入り口。



イメージ 6
祇園城。



「小山義政の乱」では、はじめに本拠鷲城が落城、後祇園城に撤退。祇園城も落城。その後小山若犬丸により、数度にわたり祇園城を奪回するも、関東公方軍に接収される。
ややあって、結城氏流小山氏が祇園城に入り、第二次小山氏として受け継がれていった。



イメージ 7
祇園城。本郭付近は公園化されていたが、明瞭な土塁などが残されていた。



イメージ 8
祇園城。深い空掘り。



イメージ 9
祇園城。深い空掘りを隔てて平坦面。



イメージ 10
祇園城。再び、深い空掘り。



イメージ 11
祇園城。高い土塁の脇を廻り込むと、




イメージ 12
天翁院があった。どうやらここも城郭の一角を占めているいるように感じられる。



イメージ 13
天翁院。小山氏墓地。小振りの五輪塔があった。



天翁院墓地の脇から奥に進むと、蜘蛛の巣だらけの平坦面となった。ここが北郭か?土塁が現れロープが張られていた。ロープに沿って進むと天翁院の裏に出た。ここにもロープが。人のいないのを確認し、ロープをくぐって脱出。ヤベ~、ヤベ~。


思川畔に出て、鷲城に向かう。



イメージ 14
思川畔から祇園城を振り返る。写真中央付近。


国道50号を渡って、迷い気味に、



イメージ 15
鷲城の案内板を発見。


鷲神社の参道と思われる小道を進むと、


イメージ 16
鷲神社があった。どうやら鷲城内に入っているようだが、城跡の感じは皆無。



小山氏の宗家大田氏は鷲宮神社(埼玉県旧鷲宮町)を奉祭していた。下野小山氏も旧鷲宮町の鷲宮神社の修復に協力していた。してみると、ここの鷲神社も鷲宮神社の別宮的な神社ではないのか?下野南部には多くの鷲神社、大鷲神社の存在が確認できるが、小山氏領との関連が認められるとおもしろいのだが。

取り敢えず、鷲神社から伸びる小道を発見し、進んでみるも、蜘蛛の巣多し。やや、藪城の感覚を覚える。

「横矢」の標識を発見するも、草深くなんとも判りずらい。


イメージ 17
鷲城。「横矢」の先にあった土塁?堀切?



イメージ 18
鷲城。「虎口」とあるが、ここも草ボーボーで、よく判らず。


ここを下ると、藪から解放されて、綺麗に整備された小山総合公園に出た。多くの若者たちがバーベキューを楽しんでいた。

ものたらん!

と思い、再び藪道へ。

違う小道を発見し、進む。空掘りのような土塁のような所を乗り越すと、民家のある舗装道に出た。喉が渇いていた。う~ん、ここらでオヒラキとしようか。

国道50号に戻り、JR小山駅に向かった。

途中で発見したソバ屋で、お冷のガブ飲み、冷やしたぬきソバ大盛りを食って帰途に着いた。


やっぱり、城見物は冬の方がいいかなぁ~。

行った日:2018.8.13
コース:関東鉄道常総線騰波ノ江(とばのえ)駅(10:00)~関城~大宝城~下妻城(多賀谷城)~常総線下妻駅=汽車=守谷駅~守谷城~守谷駅(16:00)



どうも天気の様子が芳しくない。山小屋の予約をキャンセルし、城見物にでかけた。



関東鉄道常総線の1両編成の汽車に乗り、騰波ノ江駅で降りた。
梨畑が続く道を歩くと、


イメージ 1
関城(国指定史跡)を望む。


関城は低地に囲まれた台地上にあった。低地にはかつて大宝沼が水を湛えていたらしい。



イメージ 2
関城。



イメージ 3
関城。



イメージ 4
関宗祐のお墓。南朝方として北畠親房を迎え入れた。約二年の籠城(1343)に耐えるも落城。



イメージ 5
関城。土塁跡。



イメージ 6
坑道跡。攻城軍高師冬が城内を目指して掘らせたと伝わる。


城内は民家などが多く進出していた。低湿地の中の微高地と言う事で、昔も今も住むのには適した場所なのだろう。関城跡は、城内よりも遠望がいいのかもしれない。




関城北側から糸繰川に出て、南下。大宝城を目指す。草いきれの強烈な糸繰川の土手上を歩く。この頃よりギンギラギン。日陰はない。
左手に木陰を見つけ糸繰川を離れる。水をガブ飲みして、煙を吹かす。
腰を上げて少しだけ進むと、そこがこれまた国指定史跡の大宝城の一角だった。



イメージ 7
大宝城搦手口。


イメージ 8
大宝城土塁?切岸?



イメージ 9
大宝城内大宝八幡宮。平安末期には存在が確認される。


大宝八幡宮があり、そこを城郭化したものと思われる。


イメージ 10
大宝城。南北朝期、関城と連携し反足利勢力として南朝の拠点となる。


後年、室町期には結城氏家臣の多賀谷氏が領有。
大宝八幡宮に現存する梵鐘は武蔵国崎西郡渋江郷平林寺のために鋳造されたものと伝わる。多賀谷氏の御先祖は、埼玉郡多賀谷郷。野与党の道智氏から出ているとも言われる。渋江郷も野与党の領域であり、何か関連があるような気がする。ムフフフッ・・・。


イメージ 11
大宝城南側の土塁。



イメージ 12
大宝城南側の土塁。城内には小学校、幼稚園、保育園の他、民家多数あり。


大宝八幡宮参道脇の土産屋で、ラーメンを食い、お冷のガブ飲み。店員が話しかけてきたので、関城から歩いてきたと言うと、「大宝城関連要図」という印刷物を手渡された。


さて、お次は下妻城(多賀谷城)じゃ。
あまりの暑さに、途中でアイスクリームを購入。なれないものを食ったら腹が痛くなった。


イメージ 13
下妻城。(多賀谷城祉公園。)



イメージ 14
石碑には多賀谷氏。



イメージ 15
下妻城・多賀谷城の最盛期は、とんでもなく広かった。


下妻城は多賀谷氏により1460年頃に築城され、暫時拡張。16世紀末期には南北2.5km東西1.5kmに及ぶ広大な城域となった。残念ながら現在は、都市の中小規模の公園の中に「多賀谷氏」が石碑に顕彰されているにとどまる。街中を歩けば、土塁や掘り跡が残存するようだが、そこまではねぇ~。


多賀谷城址公園から、関東鉄道常総線下妻駅は近かった。

下妻駅から汽車に乗り守谷駅に向かった。


守谷駅で下車。ここは「つくばエクスプレス」が開通してから急速にに発展した街だ。駅頭には「2017住み心地日本一」の横断幕がかかっていた。しかし、歩く者には、決して歩きやすい所では無かった。完全に車社会のための街づくり。


駅から守谷城を目指すも、迷い気味。もともと守谷城の位置もハッキリしていなかったし、守谷城を案内するものもない。ただ、森林公園のそばという情報だけがたよりだった。
つくばエクスプレスの高架下を北上。人影は無い。やっとみつけた親子連れに「森林公園」を聞くと、この道を真っ直ぐいけばいいと言う。しめしめと思うも、すぐに行き止まり。う~ん困った。勘で右に進んで左へ。こんな時に雨が降ってきやがった。それもとびきりの豪雨が。雷も鳴っている。近くの橋下に避難。遠くには薄い青空も見えるので、煙を吹かせていた。15分も橋下にいると、小降りになってきたので再出発。
ふと、左手を見ると、小高い森が見えた。おおっ、森林公園か!森に入ると公園化した森だった。勘で右に進むと若者がこちらに歩いてくるので、「守谷城は知りませんか」と聞くと、「知りません」との事。う~ん、まずいねぇ。所が、そこから1分も進むと、森が終わって駐車場があって、「守谷城」とあった。



イメージ 16
いきなり現れた守谷城の案内板。



イメージ 17
守谷城。



イメージ 18
守谷城中心部の平場。



イメージ 19
守谷城。堀切か?



イメージ 20
守谷城。


守谷城の成立期は不明だが、下総千葉氏の一族相馬氏の城と考えられている。上杉謙信越山時の「関東幕注文」に古河衆として名を連ねているので、古河公方傘下であったと思われる。が、その後の後北条氏による関宿城攻撃などを受けて北条傘下に入ったものと思われる。


雨は上がった。
蒸し暑い中、守谷駅に向かった。



城ブームだそうだが、大宝城の大宝八幡宮以外は、だぁ~れも居なかった。

行った日;2018.8.5



イメージ 1
一輪草自生地。




イメージ 2
一輪草自生地。




イメージ 3
弁財天。




イメージ 4
弁財天。




イメージ 5
弁財天。




イメージ 6
弁財天。




イメージ 7
一輪草自生地。




イメージ 8
植物振興センター。




イメージ 9
植物振興センター。




イメージ 10
植物振興センター。




イメージ 11
植物振興センター。




イメージ 12
植物振興センター。



薮蚊に刺されまくって退散。

↑このページのトップヘ