2016年08月

行った日:2016.8.28
コース:東武スカイツリーライン加須駅(9:00)~騎西城~玉敷神社・宮目神社~伊豆山龍花院~騎西領用水・新川用水(旧日川?)~東武スカイツリーライン久喜駅(14:30)



吾妻鏡」建久5年(1194年)6月30日の条

「武蔵国大河土御厨において(久)伊豆宮神人喧嘩出来の由、その聞こえあり、驚き思し食すによりて尋
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」


尊卑文脈によると、事件後、
太田荘の地頭太田行朝が荘園を召し放たれた。


鎌倉時代に起きたこの事件について、関連自治体の市史や町史、研究本を読んでみると、いろいろな解釈の仕方があるものだとおもった。
伊豆社神人については、玉敷神社説、越谷久伊豆神社説、走湯山伊豆山神社説。
喧嘩の相手は、大河戸御厨住人説、伊勢神宮神人説、葛浜氏説等々。

だいいち、大河戸御厨の位置すらまちまちだ。処罰された太田行朝が管轄する太田荘の位置もはっきりしない。


そんな中で、太田荘の位置について、宮代町史と白岡町史がかなり明瞭な記述をしている。それは、北限をほぼ現利根川、東限をほぼ現古利根川、南限を古隅田川。
西限は、ほぼ現在の新川用水路で元々は日川と呼ばれていた。

この西限に関してさらに調べると、「利根川の歴史・金井忠夫・1997日本図書刊行会」に行きあたった。
即ち「行田市と加須市境界線を流れる彦八郎用水の前身の故道を派生させてから・・・、騎西領用水(新川用水)筋と続く・・・利根川分流路は久喜市下清久と上早見の埋没ローム台地に押し入って、JR白岡駅東側を経て、蓮田市、岩槻市境を南流し元荒川に合流する・・・」と。

なるほど、宮代町史、白岡町史の新川・日川の記述と一致している。なお、宮代町史は新川(にっかわ)・日川東岸(左岸)に久伊豆神社は存在しないとする。なるほど。



さらに、久伊豆神社を調べると、
大元締めは、玉敷神社であると。

さらに玉敷神社を調べると、
元は、現在の位置より北の騎西町正能の龍花院に隣接する地にあったと。上杉謙信の騎西城攻めの際に玉敷神社は全焼し、文書、宝物も失ってしまった。後に、騎西城内に再建され、さらに後に、現在の地に遷座した。


地図で、あらためて龍花院の場所を調べてみると、
龍花院の南側に新川用水が流れている事が判った。ムムムッ・・・。

何がムムムッかと言うと、新川を南側に見ると言う事は左岸にあたり太田荘域であり、その地には久伊豆神社は存在しないはずなのである。久伊豆神社ではないにしろ、その大元締めの玉敷神社が太田荘域にあるのはおかしいではないか。

現在の玉敷神社の場所には、実は式内社宮目神社(論社;宮代町姫宮神社を宮目神社とする説あり)があったという説が存在する。八潮市史は、むしろ久伊豆神社の前身を宮目神社に比定する説を推している。

などと、思いつつ、とりあえず、現地に行ってみたのだった。



加須駅から西に真っ直ぐ歩くと、やがて今日のお目当ての新川用水が現れるが、取り敢えずは新川を突っ切って騎西城に向かう。



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騎西城。ああいった構造物を見ると、いやになっちゃう。


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江戸時代の騎西城図面。赤く囲った所に玉敷神社(久伊豆神社)があった。今は埼玉神社となっている。


騎西の城下町を抜けて、


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現在の玉敷神社。


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玉敷神社。なにかおごそかな事が行われていた。こう言った事には興味無し。



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玉敷神社。



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玉敷神社神楽殿。


そして、裏側に回ると、


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あった、あった。宮目神社だ。


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ここでは、「摂社」とされている。一応、関連神社との扱いか。



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宮目神社案内。字が消えかかって、よく見えない。



これまで、何度か来た玉敷神社であったが宮目神社の存在は気にしていなかった。取り敢えず、宮目神社を確認しただけで安心してしまう。次へ。


玉敷神社を出て、北へ向かう。



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新川用水のほとりに、「古宮」の地名が。なんとなく、それらしき雰囲気。


新川用水に沿って、東進。


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あれが、龍花院だった。


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龍花院の案内板。たしかに、隣接して玉敷神社があったらしい。



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そして、「伊豆山」の文字が。



伊豆山龍花院・・・。
鎌倉時代の創建となると、玉敷神社の方が相当古い。玉敷神社の別当寺として存在したのか?
にしても、「伊豆山」からは、久伊豆神社も走湯山伊豆山神社も自然に想起されてしまう。


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墓地の近くに、青石塔婆と古そうな石仏が。


そして、やはり玉敷神社は新川・日川の左岸太田荘側に存在していたのだ。う~ん、困ったねぇ~。それで、本当に久伊豆神社の総元締めなのかいな?



伊豆山龍花院を後にして、




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現騎西領用水・新川用水(元日川)に沿って、下流方向に延々と歩いた。



そして、気がついたのが、左岸と右岸で全然土地の高さが違うのである。左岸(太田荘)が右岸(通称崎西郡:野与党支配領域)よりも高い。ムムムッ・・・。しばらく歩くと左岸、右岸の高低差は感じられなくなった。
はたして、かつての日川は本当にここを流れていたのだろうか。


微妙な高低差をにらみつつ・・・・、

なんとか、玉敷神社を野与党支配領域に引っ張り込みたいのだが。また疑問が湧いてしまったなぁ~。



久喜市上早見で、左折。久喜駅に向かった。

行った日;2016.8.16
コース;つくばEXつくば駅=つくバス=北条三叉路バス停~無量寺~多気山城山麓西面の道~多気山城山麓北面の道~つくば道~宝安寺~鹿島神社~毘沙門天種子碑~日向廃寺跡~熊野神社~全宗寺~無量院~多気太郎(多気義幹墓)五輪塔~北条三叉路バス停=つくバス=小田中部バス停~小田城案内書~小田城~小田中部バス停=つくバス=つくばEXつくば駅


以前、筑波道から筑波山に登った折、西に低い山が見え、地図を見ると「城山」とでていた。

石井進著「中世武士団」と言う本がある。これを読み進んでいくと、何章かに渡って常陸平氏の歴史が綴られていた。平将門退治をきっかけに、平貞盛流一族が常陸国に繁茂し、栄華を極めて行く。後にその宗家ともいうべき多気氏が桜川西岸の水守の地から桜川東岸の多気の地に移ったという。現在のつくば市北条地区である。そして、その裏山が多気山城、現在の城山である。
繁茂した常陸平氏を並べてみよう。
多気氏、下妻氏、真壁氏、吉田氏、石川氏、馬場大掾氏、行方氏、麻生氏、玉造氏、手賀氏、鹿島氏、石毛氏、豊田氏等々。

2,3日前、する事も無くテレビのチャンネルを変えていると、放送大学で、「地域の歴史」という番組を放送していた。そして、代表例として常陸平氏の繁栄の事例を紹介していた。


多気山城に至るルートは、判らなかった。取り敢えず、つくバスに乗り北条三叉路バス停で降りた。まずは無量寺に行ってみよう。



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無量寺内にあった、多気稲荷社。


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無量寺。多気義幹による創建と伝わる。


無量寺内や背後の墓地を巡り、多気山城へのルートを捜す。確実な道は発見できず。登れそうな所はあったが、蜘蛛の巣がひどく退散。

北条の街並みに戻る。
賑やかに会話中の婆さんの間に割り込み、「裏山へ登る道は知りませんか」と聞くも、「知らない」との事。仕方ない、ぢ道に多気山・城山山麓を時計回りに歩いてみよう。

西面で、爺さんに裏山の道を聞くも知らないと。



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東面より、多気山・城山を望む。


東面で、農作業中の爺さんに声をかけると、婆さん声の返事。ん、婆さんが草叢から現れた。
婆さんによると、「この先に城山に上がる道があるが、入れない」と。どこかの宗教団体に山全体が買われてしまったとの事。ムムムッ。俺はしつこく、「徒歩なら入れるんでしょ」と聞くと、口をへの字にして、ダンマリになってしまった。「ありがとう」と言って先に進んだ。

とりあえず、この先に道があるようだ。
つくば道に出た。つくば道を南下してすぐ、ムムムッ、大きな白い鉄扉で塞がれた道が多気山・城山の方に向かっている。婆さんが言っていた道は、これに違いない。閉鎖の仕方が異常に厳重である。ここを強行突破したとて、何かトラブルでも起こったらたまらんワイ。そう思わせるに充分な異常さであった。

仕方ない、他の道を捜そう。
北条地区に向かう短絡道をたどって、宝安寺、鹿島神社、毘沙門天種子碑、日向寺跡、熊野神社、全宗寺と歩いた。結果、熊野神社右手に踏み跡を発見、但し、ここも蜘蛛の巣だらけ。今日はやめておこう。


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日向廃寺跡。つくば市の資料によると、平安末期の阿弥陀堂跡で、多気氏の拠点であったと推測されるとの事。


そして、無量寺に戻る。ここに、多気太郎五輪塔→の案内があり、向かう。


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多気義幹の五輪塔着。


平安時代中期より繁栄した多気氏。鎌倉時代に下野国よりやってきた八田氏(宇都宮氏一族、常陸守護)により欺かれ、没落していく。八田氏はここから至近の地小田で、小田氏を名乗る。


バス停に行くと、折よくすぐにバスがやってきて、小田中部バス停に向かった。バス停でわずか4ツ目の近さである。両雄並びたたず、か。


小田中部バス停から少し東に歩いてから右折すると、「小田城案内所」があった。以前来た時は無かった施設である。案内所には二人の係員がいた。
俺は、小田城の事では無く、多気山城の事について質問した。

①多気山城への道はないのか。
  ありません。
  現在他市の宗教法人に買い取られております。宗教法人は、関係者以外の訪問を嫌っております。
②つくば市は、300億円超のスポーツ施設を計画しておったが、そんな計画をするぐらいなら、多気山 城・城山を買い取れはよかったのでないか。
  係員①
  住民投票で建設が否決され、県会議員に笑われておりますよ。ああいった施設は必要なんですがねぇ  ~。
怒。
  係員②
  まぁ、まぁ、いろんな考え方がありますからねぇ~。
③多気山城は、つくば市で発掘調査をしていると聞いておりますが。
  係員②
  はい、2009年頃に調査しました。結果、戦国期後半の遺物のみが発掘され、多気氏在城の証拠は  出ておりません。
ムムムッ。汗・・・。
④水守の城はどんな感じですか。
  あちらは、開発が進み素人では城跡の感じは受けにくいかもしれません。

その後、係員①から懇切丁寧に小田城周辺の遺跡分布についてレクチャーを受けた。悲しいかな、歩留まりほぼ0であった。申し訳ありません。


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小田城跡。解説板。


宇都宮氏の一族八田知家は源平合戦の勲功により、常陸国守護職に抜擢された。常陸平氏宗家多気氏の本拠地から歩いて行ける小田の地に城をかまえ、小田を名乗る。

宗家多気氏を欺き没落させたとはいえ、周辺には常陸平氏の有力者がゴロゴロしている。他にも、佐竹、結城、多賀谷等々がひしめいており、枕を高くして寝る事はできたのだろうか。俺だったら、そんな出世はしたくない。

やがて時代は過ぎ、南朝勢力の東国拠点となる。その後も、小山若犬丸事件(難台山城)に関わったリ、上杉謙信に攻められたり、小田城争奪合戦は延々と続く。右往左往はあったものの、戦国末期まではなんとか持ちこたえが、佐竹、結城連合軍に小田城を占拠される(関八州古戦録)。


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整備された小田城跡①。



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小田城跡②


  
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小田城跡③ 後ろの山は宝篋山。係員①によると宝篋山城もあると言う。その山麓にも土塁跡が点在するとの事。


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小田城跡④


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小田城跡⑤ 筑波山の右手裾野に小さく多気山・城山が見えた。


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小田城跡⑥


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小田城跡⑦


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小田城跡⑧ 遠く地平線のどこかに、常陸平氏故地水守城跡があるはずである。


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小田城跡⑨ 左にリンリンロード(自転車道、土浦~岩瀬、かつての筑波鉄道軌道跡)。



この後、極楽寺跡に行こうと思っていたが、天気予報に反するギンギラギンの太陽にギブアップ。バス停に向かった。


はたして、現在、多気山城はどうなっているのであろうか。


筑波山麓に展開した多気氏と小田氏。同じ市内に両雄が並び立つ不思議な地域である。お金持ちであろうつくば市においては、なんとかなんなかったのかねぇ~。残念ですなぁ~。

行った日;2016.8.14
コース:秩父鉄道親鼻駅(8;40)~県道82号線(戦場通り)~強石橋(9;05)~強石地区~321m峰・竜ヶ谷山(9;45)


皆野町の龍ヶ谷城は、以前から行ってみたかった。それは、遺構状態が良好な中世山城と評価されていたからだ。


親鼻駅から国道140号、県道82号と歩く。寄居・皆野有料道路をくぐり、しばらく歩き三沢川を強石橋で渡ると、左手に舗装道路がありこれに入る。



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強石橋を渡った所左手にあった龍ヶ谷城の案内板。



強石地区の数件の家々が一旦つき、再び一軒の家が現れる。



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その家の脇に、標識があった。



ムクゲの小道を上がると、すぐに再びアスファルトの小道に出会う。これを少し登ると、もう一軒民家があった。城跡へのルートが判らず、民家の前をウロウロしていると、犬に吠えられた。あまりに激しく吠えたせいか、民家のオバチャンが表に出てきて、「お城ですか?」と聞いてきた。「あぁ、そうです」と答えると、民家の青いトタンの建屋の前を指して、「あっちですよ」と教えてくれた。



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そこには、小さな矢印形の木製の標識があった。但し、字は消えて全く見えない。



オバチャンによると、結構この城の訪問者は多いらしい。「山頂から北側に抜けられますか?」と聞くと、「道はあるらが、相当荒れているので、こちらに帰ったきた方がいいよ」との事。



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山道となり、お堂が2つ現れて、龍ヶ谷山321m峰の南の尾根に乗った。



足場は良いのだが、蜘蛛の巣がヒドイ。蜘蛛の巣を払いながらの登りとなる。蜘蛛の巣が多すぎて、中々前に進めない。やがて龍ヶ谷城の遺構と思われる、堀切や帯状の削平面が目に着くようになる。西側は非常な急斜面で、東側に遺構が集中している。



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尾根上の堀切。



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本郭下の削平地。



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そして、龍ヶ谷山・321m峰に到着。本郭跡との事だが、意外に狭い。


まずは、体中に纏わりついた粘った蜘蛛の巣を引き剥がす。お茶をガブ飲み。タバコを吹かす。


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本郭のすぐ下に詳しい案内図があった。


どうやらここから東側に伸びる尾根に遺構が濃厚にある雰囲気だ。そちらに向かおう。



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本郭から東に向かってすぐの所に標識があった。


「スポーツ公園→」は北の尾根か?であれば、当初予定のコースで261.9m峰に向かうつもりであった。
「ハギノソリ峠」は東の尾根か?



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これが「スポーツ公園→」ルートのようだ、急な片斜面にロープが渡されている。多分、急な下りはじめだけだろうが、自分には無理と判断して、ここを下るのはやめた。

「ハギノソリ峠」がどこにあるかは知らないが、取り敢えずそちらに向かってみよう。

一段とヒドクなった蜘蛛の巣を払いながら細い東の尾根を辿る。



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この堀切を渡るのに苦労した。



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樹間より。右に長瀞町の盆地。左の山は宝登山か。



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尾根南側の削平地。



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尾根を切断した堀切。



ここらあたりで、顔面に蜘蛛巣が巻きつきギブアツプ。
素晴らしい遺構の数々ではあったが、心が折れた。それほどひどい蜘蛛の巣であった。


山腹を巡る事もやめ、来た道を戻った。


御馳走を目の前に、今日も敗走。

親鼻駅近くのうなぎ屋で、カツ丼を食って、ピールを飲んで、帰途に着く。



寒くなったらもう一度来よう。
そう思わせるに充分魅力的な藪城、いや蜘蛛の巣城であった。

行った日;2016.8.6


山で、ヌメッた橋が渡れないと言う情けない状況で、仕方なく「秩父神社」、「埼玉県立川の博物館」に寄ってみたものの、なんの満足感も得られず。


小川町で蕎麦でも食って帰りましょうと、車を走らせている途中で、嵐山町の「杉山城」を思い出した。



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おおっ、以前はこんな案内は無かった。



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杉山城大手口。ここに立派なパンフレットが置いてあった。



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パンフレット。


パンフレット・・・・。
杉山城は、鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上におよそ10の郭を配置した縄張りとなっています。
高度な築城技術により、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作」という評価がされてきました。

これまで、高度な築城技術から、「後北条氏の城」として認識されていましたが、嵐山町では平成14年~18年度にかけて学術発掘調査を実施しました。その結果、城跡の年代が15世紀末から16世紀前半であり、後北条氏の時代ではなく、それ以前の山内上杉氏により造られた城であったことがわかりました。



なるほど。
嵐山町によると、「杉山城問題」は解決したということか!



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やっぱりこの城跡はスゲーなぁ。


近世城郭ファンは別として、城跡好きにとっは必見ですなぁ~。


ようやくにして、満足感を得て、帰途に着いた。

行った日;2016.8.6


山で、ヌメッた橋が渡れないと言う情けない状況で、仕方なく秩父神社に寄ってみたものの、なんの満足感も得られず。


以前から行ってみたかった、「埼玉県立川の博物館」に寄ってみた。


行ってはみたものの、荒川関連の展示がほとんどであった。俺は、現在、利根川に興味があったのだ。

しかし、屋外に面白いものがあった。



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荒川流域の山々。最奥に三宝山、甲武信ヶ岳、木賊山。



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武甲山。



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武甲山西尾根・高ワラビ尾根の向こうに浦山ダム。



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しかし、荒川支流浦山川は浦山ダムまで。広河原谷、細久保谷は完全無視。ガッカリ。



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甲武信ヶ岳上空から荒川を見下ろすと。真の沢の深い切れ込みが。



こちらも、ややガッカリ気味に去る。

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