2015年02月

山行日:2015.2.28
目的地:鶏足山、焼森山
コース:仏ノ山峠・吹田P(8;00)~茨城・栃木国境尾根~292.5m峰(8:30)~323m峰(9:15)~車道横断(10:30)~274.1m峰(10:20)~313m峰分岐(10:30)~焼森山登山道合流(11:00)~430.5m赤沢山・鶏足山~(11:20)鶏足山・見晴台(11:50)~430.5m峰~焼森山(12;10)~小貫焼森山登山口(12:50)~県道~仏ノ山峠・吹田P(13:40)


正月休み以来の山歩きである。
その間、お腹だけがポッコリと出っ張ってきた。俺の姿からは、人は俺の腹の出っ張りを想像できないであろう。痩せたオッさんにしか見えないはずである。いわゆるヤセ肥満と言うヤツであろう。


本コース、茨城の山の達人yamasanpoさん御夫妻の記録で知ったものである。御夫妻の記録とは反対廻りで歩いた。それは、地図を見て、コースミスの危険を感じたからである。反対コースならば、まずその心配なかろうと判断した。なにせ、体力的不安があるもので・・・。


車で仏ノ山峠を乗越した折、黄色いヤッケの御仁がリュックを担いで峠方向に歩いていた。ムムムッ・・・。

吹田Pに車を止めた。
吹田Pと車道を挟んでヒトケの無い家があった。その脇に細い流れがあった。


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細い流れの脇に踏み跡があった。


ひと気の無い人家の脇の、細い流れに沿って山に入った。数分でイバラ藪に塞がれ、右手の山腹に取り付き斜上した。あっさりと茨城・栃木の県境尾根に達した。踏み跡はあったり、無かったり。


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結界か!


県境尾根に出てしばらく歩くとトラロープが行く手を中途半端に塞ぐように張られていた。おそらくは、茨城県側の鉱山によるものであろう。樹間越しではあるが、巨大な要塞のような施設が見え、重機の音が聞こえてくる。

尾根筋はハッキリしているが、念のため磁石はコマメニ確認した。


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時折、道型がハッキリとする。


が、全然道が無い所もある。季節柄、藪めいた所は少ない。ツツジ類であろうか、枝の跳ね返りで、鼻や耳をピシピシと叩かれる。
登り下りの少ない尾根で、メタボでも楽に歩ける。杉林が無いので、非常に印象が良い。


急な下降となり、下に、

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車道が見えた。


車道際まで降りたが、高い擁壁があり下れない。地図を見て、廻りを見渡して、何の根拠もなく、栃木側に活路を求めた。数分の下りでアッサリ車道に降り立つ事ができた。

車道を数分茨城側に進み、左手に小尾根を見つけ、山腹に取り付く。小尾根上に出るとハッキリとした踏み跡に出会った。


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この先は殆ど登山道と変わらぬ踏み跡で、ルート捜しの必要は無くなった。


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ここが、313m峰分岐であろう。焼森山方向から来ると直進で313m峰。右折で県境尾根である。細い鉄駐と、それに結ばれた色褪せた赤布と青いビニール紐があった。

このあたりから、樹間右手に鶏足山らしき姿が見え始める。


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感じの良い尾根道。


間もなく、賑やかな話声が聞こえてきた。焼森山登山道と合流したのだ。ここから僅かで、焼森山と鶏足山の分岐に達した。


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そして、430.5m鶏足山に着いた。と思った。


が、どうやらここは赤沢山と言うらしい。
しかし、上の写真の看板をよ~く見ると、以前には「鶏足山」と大書きされていた模様。「鶏足山」の上にペンキを塗って書き換えたのかな?

まぁ、よい。ならばあと260m歩いてみようじゃぁないの。


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おおっ、鶏足山か!


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鶏足山だぁ~。


鶏足山は、正に見晴らし台であった。
霞がかかったようではあるが、日光連山、男鹿山塊、那須連山の白い山並みが見えた。奥久慈連山であろうか低い山の連なりが見た。そして東に茨城の広大な平野が広がっていた。

あまりに気分のいい所で、長居をしてしまった。

そして、焼森山に向かった。


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焼森山頂から。右から雨巻山、高峯、奥に筑波山と加波山、奈良駄峠、仏頂山。左奥に難台山方面。(全部アテズッポウです。誤りがあったらご指摘ください。)


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茨城の山々。特に筑波山は、見慣れぬ容姿をしていた。


焼森山の先の断崖上で、だれかが尺八を吹いていた。気持ちがいいんだろうな。


さて、ここはアッサリとオサラバ。


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気持ちの良い山道をノソノソと下った。


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小貫焼森山登山口にて。


県道に出て、ダラダラと仏ノ山峠へ向かって登る。


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ここにきて、疲れが出た。遠くに仏頂山が見える。


ヤットコさで、吹田Pに帰着。


笠間で十割ソバを食って、家路に向かう。
疲れたが、十分里山気分を堪能できるコースであった。

行った日:2015.2.15


今週も山歩きはお休み。

まずいねぇ~。

痩身ながら、腹だけが出てきた。ポッコリとね。

ビール腹である。


少しは運動をしなければ。


安行植物振興センターの梅でも見てくるかぁ~。



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坂を上がると蝋梅があった。


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風が強かった。


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梅は少しだけ咲いていた。


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たくさん咲いている所だけ撮った。


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こいつを見ると、どうしても山を思い出してしまう。


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なかなか風が収まらん。


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つぼみの方が多いのだ。


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植物振興センターなので。


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いろいろと咲いている。


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おひる前に帰りました。

行った日:2015.2.1
目的地:朝霞市岡の岡の城
コース:JR武蔵野線北朝霞駅~岡の城~柊塚古墳~JR武蔵野線西浦和駅


今日こそは山歩きにでかけようと思いつつ、朝起きるとやっぱり体が動かない。
家でゴロゴロは腰痛のもと。肩痛とのWパンチは避けたいところ。むりやり的に散歩にでかけた。


武蔵野線の北朝霞駅から南下。下って、登って、


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朝霞市城山公園。ここが、岡の城。


岡の城の「岡」は朝霞市岡の地名。もしかして、城の名前が無いのかな?
岡の城は、記録には殆ど(もしかして、全く)出てこないのだそうだ。関東管領扇谷上杉氏関連の城との事。武蔵野の台地が尽きる寸前、現荒川(元入間川)を遠くに望む地点にあった。


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岡の城入り口。


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細い通路。堀切などあり。


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一の郭。


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二の郭。台地上の連郭式である。


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比高10m位。城を降りる。やり過ぎである。


城の南側は、水遊びとアスレチックの公園になっていた。憩いの場として、好適な所であった。


城の東面の黒目川に沿って南下。県道を右折。さらに公園通りに入り、柊坂を上がる。


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柊塚古墳案内板。


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左奥の階段を登る。

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柊塚古墳。詳しい案内板はなし。直感的に円墳と思ったが、図を見ると、前方後円墳。前方部が無くなっている。

後円部に続く道が作られていたが、しっかりと施錠されていた。


一夜塚古墳に向かう。
小学校の敷地内に古墳跡の案内のみがあった。古墳の形跡は全くなし。


さてどうしよう。
少し歩き足りない。お隣の西浦和駅まで歩く事にした。


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荒川の秋ヶ瀬橋より奥武蔵の山々を遠望。


やっぱり、山歩きがいいやねぇ~。

「吾妻鏡」建久5年(1194年)6月30日の条

「武蔵国大河土御厨において(久)伊豆宮神人喧嘩出来の由、その聞こえあり、驚き思し食すによりて尋
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」


2.大河土御厨

吾妻鏡にある「武蔵国大河土御厨」とはどこにあるのだろうか。
いろいろ調べてみたが、ズバリと指摘している文献にはまだ出会っていない。
おおまかに、
現在の埼玉県松伏町、吉川町、三郷市、八潮市。それに、東京都足立区東北部にあたる地域らしい。在地領主は大河戸氏。本拠地は現松伏町大河戸地区。

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大河戸氏の館跡地と伝わる、松伏町大河戸の神明社。当神明社は伊勢神宮の祭神天照大神をまつったものである(越谷市史)


大河戸氏は、藤原秀郷流の子孫である。下野国の小山氏、埼玉郡北部太田荘の太田氏、下総国北部の下河辺氏と同族である。
大河戸氏は源平合戦で平氏側につき戦ったが、戦後赦免され領地を安堵されている。

 1181年 大河戸広行が赦免される。
 1184年 源頼朝により、大河土(御厨)が伊勢神宮外宮に寄進される。
 1194年 武蔵国大河土御厨にて伊豆宮神人が喧嘩。
       後日、太田荘太田行朝が、当該事件に関連して、太田荘を召し放たれる。
 1213年 大河戸御厨の内、八條郷(八潮市)は式部太夫重清に与えられ、地頭職は渋江光衡に安堵       される。

ん、ここでさらなる疑問が生じるのである。
松伏、吉川、三郷は下総国の葛飾郡であり、八潮は武蔵国埼玉郡であり、足立区は武蔵国足立郡である。してみれば、事件が起こったのは八潮市か、足立区なのか。

各市町の市(町)史を見ると、越谷久伊豆神社の神人にかかわる事件としての扱いが多いのである。越谷久伊豆神社の隣接地は中世利根川の対岸下総国の吉川市、松伏町付近なのだが。

事件発生の地が武蔵国であるとすると、1213年に八條領の地頭職が「渋江光衡に安堵」された事が気にかかる。従前から渋江氏が地頭職を継承していたのか?してみると、大河土御厨には、大河戸氏と渋江氏が併立していた事になる。

渋江光衡は、武蔵七党の野与党岩槻渋江氏から出ている。後に八條五郎と呼ばれる。八潮市域は武蔵国埼玉郡の最南部に位置する。埼玉郡北部に根拠を持つ野与党が開発領主として、暫時南下してきたものと見られる。
野与党の出自は、下総平氏(または同系の千葉氏)とされる。

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八條八幡神社(埼玉県八潮市八條)。武蔵国一宮の氷川神社と久伊豆神社を合祀。古墳跡と伝わる。また近年、付近より平安時代の出土物が発見された(中川の河川工事による)。

近隣に鶴ヶ曽根の上・下久伊豆神社が二社存在する。二社が鎌倉時代に創建されたと言う記録はないが、久伊豆神社の存在は、野与党の勢力範囲であった事を物語る。


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八潮市鶴ヶ曽根の下久伊豆神社。


俺の勝手な想像は、事件発生の「武蔵国大河土御厨」の地が、埼玉県八潮市であるのではないかとの妄想を生んでしまったのだ。

事件の地が、武蔵国大河戸御厨内となると、東京都足立区にも目を向けねばなるまい。そこで気になるのが足立区花畑の大鷲神社の存在である。太田荘の太田氏が信仰した鷲宮神社と何やら共通点の多い神社ではある。
大鷲神社は、綾瀬川、毛長川合流点近くに鎮座している。平安末期の成立のようだ。綾瀬川は、荒川本流の時代もあった。毛長川は、太古には入間川本流の時代もあった。中世前期の様子は俺には全く判らんが、河川交通の要衝だったかもしれんなぁ。であれば、神人たちの集住の場があったかもしれない。


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足立区花畑。綾瀬川・(伝右川)・毛長川合流点。



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花畑大鷲神社。「酉の市発祥」と言われる。

ただし、調査不足のせいか、大鷲神社と鷲宮神社・大河戸氏・太田氏との関連は発見できていない。これらの関連性が浮かび上がってくると、面白い展開になるのだが。




3.下河辺荘
大河土御厨の東方と北方は広大な下河辺荘と隣接する。
下河辺荘の位置もまた、はっきりとはしない。八潮市史によると、東は現在の江戸川筋、北は茨城県総和町上大野付近、西は渡良瀬川・古利根川・古隅田川のライン、南は三郷市南部を分限とするある。また、栗橋、五霞の県境から庄内古川を東限とする説もある。一方、野田市史、宮代町史などによると、他に茨城県古河市、野田市を含み東の分限は常陸川水系とあり、この説によると江戸川東岸も下河辺荘となる。大略、下総国葛飾郡北部の大半と言う事であろうか。

下河辺荘は平安末期には成立。
事件当時は、鎌倉幕府の有力御家人下河辺行平が荘司を安堵されている。寄進先は鳥羽天皇第三皇女八條院である。
下河辺氏は大河戸氏と同様に藤原秀郷流小山氏からの分派である。早くから頼朝に組みし諸々の逸話から、頼朝の信頼が厚かった事がうかがわれる。
ただし、下河辺行平以降の代においては、史料に直接現れる事は少なくなり、下河辺氏の支配権は失われていったと思われる。なお、行平の子、行光は太田荘に住んでいたとの説がある。

荘域には、香取神社がワンサとあるのだが、下河辺氏と香取神社との繋がりは発見できなかった。



4.太田荘
太田荘の荘域も正確には判らないが、埼玉郡北部の広大な地域である事には間違い無い。
宮代町町史によると、久喜市、羽生市、加須市、騎西町、大利根町、鷲宮町、白岡町、春日部市、岩槻市、宮代町を含む広大な地域。白岡町史によると、かつて白岡町の中を流れていた日川という川を西限とする。

太田荘も平安末期に成立。下河辺荘と同じく、寄進先は八條院。
荘司は太田氏。大河戸氏、下河辺氏と同様に藤原秀郷流小山氏からでている。
太田荘の総鎮守は鷲宮神社である。宮代町史によると、鷲宮神社の分布は日川を越えて西には無いとの事。日川が埼玉郡北部を東西に分ける。西は野与党支配領域であり久伊豆神社信仰圏である。
鷲宮神社は本家下野小山氏の信仰も厚く、小山氏「由緒の地」とされ、社殿再興に致力したりしている。

八潮市史から、事件後に太田荘を召し放たれた「太田行朝は、大河戸行広の子にあたる人物である」との記述を発見。
ムムムッ・・・。

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