埼玉県東部の川歩きや久伊豆神社巡りをしていて、興味深い記録がある事を知った。
「吾妻鏡」建久5年(1194年)6月30日の条に以下のような記述がある。
「武蔵国大河土御厨において(久)伊豆宮神人喧嘩出来の由、その聞こえあり、驚き思し食すによりて尋
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」
後日談として、「尊卑文脈 太田行朝項傍注」に、
「太田行朝が神人の頸を刎ねたため、所領を召し放たれた」
とある。
「太田行朝が神人の頸を刎ねたため、所領を召し放たれた」
とある。
埼玉県東南部の古い歴史的記述が少ない事から、この記録は貴重である。
が、いくつかの不明な点を含んでいる。
が、いくつかの不明な点を含んでいる。
吾妻鏡は、「北条本」「吉川本」「島津本」などいくつかが残されているようだが、「北条本」には「伊豆社神人」とあり、「吉川本」には「久伊豆社神人」とある。
「久」が入るか入らないかで、解釈の仕方が全く異なるわけである。
「久」が入るか入らないかで、解釈の仕方が全く異なるわけである。
鎌倉時代において、事件に対して幕府自ら初動捜査は行われなかった。事件の当事者が訴えでる事により捜査がはじまる。捜査を行うと言っても、事件当事者から提出された証拠書類を吟味するだけである。その証拠書類によって判決がくだされるのである。
この事件に関しては、幕府自ら初動捜査が開始され、幕府の重臣が現地調査に赴くという異常な事態であった事がうかがわれる。
この事件に関しては、幕府自ら初動捜査が開始され、幕府の重臣が現地調査に赴くという異常な事態であった事がうかがわれる。
その他にも疑問点が多々あるのである。列記しておこう。
①伊豆社神人とは、久伊豆神社神人の事か走湯山伊豆山神社神人の事か。
②喧嘩の相手は誰であったのか。
③大河土御厨で起こった事件にもかかわらず、なぜ太田荘地頭職が召し放たれたのか。
④武蔵国大河土御厨とあるが、そもそも大河土御厨の位置はどこなのか。
⑤太田荘とはどこにあったのか。
⑤それ以前に鎌倉時代の下総国と武蔵国の国境はどこにあったのか。
②喧嘩の相手は誰であったのか。
③大河土御厨で起こった事件にもかかわらず、なぜ太田荘地頭職が召し放たれたのか。
④武蔵国大河土御厨とあるが、そもそも大河土御厨の位置はどこなのか。
⑤太田荘とはどこにあったのか。
⑤それ以前に鎌倉時代の下総国と武蔵国の国境はどこにあったのか。
1.鎌倉時代の下総と武蔵の国境
久伊豆神社分布図とか、武蔵七党分布図とか、色々な資料があるが、どれもこれも現在の古利根川、元荒川がしるされており、俺は不満を持っていた。国交省河川事務所のHPなどによると、江戸時代以前の正しい河道を推定する事は困難との事なので仕方の無い事かもしれない。
しかし、古代埼玉東部の国境・郡境は河川に沿っていたはずである。古い御達しによると「国境・郡境は旧河道を以って定める事」とされ、この記述からは、河道の変化やそれに伴う争い事が起こっていたと容易に察せられるのである。
しかし、古代埼玉東部の国境・郡境は河川に沿っていたはずである。古い御達しによると「国境・郡境は旧河道を以って定める事」とされ、この記述からは、河道の変化やそれに伴う争い事が起こっていたと容易に察せられるのである。
「越谷市郷土史研究会」HPの中の「作品集」にそのものズバリをようやく見出した。ここに「水のフォーラム」からの抜粋として、「中世利根川」の流路が示されていた。それは、ゼンリン地図へ手書きのマーカーを塗ったもので、素人の俺としては、非常に分かり易いものであった。
少なくとも現在の古利根川の河道とは大幅に異なるものであった。
少なくとも現在の古利根川の河道とは大幅に異なるものであった。
この事件に関わる、埼玉県東部地域での中世利根川の流路を追ってみよう。
まずは、羽生市と加須市の境界付近から、
現在の群馬埼玉県境付近を流れていた利根川は加須市に入ってしばらく東進後、現在の県境沿いに北進し、渡良瀬遊水地付近に達する。さらに県境を忠実に辿り、栃木市、古河市との境界も忠実に辿る。現在の渡良瀬川筋にあたる。古河市東北本線鉄橋南付近で南西に転進し、加須市久喜市の境界を辿る。
久喜市高柳付近で現在の中川と葛西用水接近部分に合流し、葛西用水(大落古利根川)沿いに流下(このへんの流路は個人的に?ですが)。
久喜市東部を縦断し幸手市西辺を南下。宮代町・杉戸町境界を南下。このあたりはずーつと現在の古利根川と同じ。
春日部市に入り、国道16号の南で古隅田川へ西進。春日部八幡宮と春日部高校を南に見る。旧岩槻市境で南進。豊春中を東に見て南進。豊春小を西に見て旧古隅田川に沿って南西に流れる。春日部市増戸交差点付近で南東へ。県道80号付近を南東へ。岩槻市増長交差点付近で南南東へ転進。香取神社を東に見て、岩槻市大戸付近で現在の元荒川に合流。越谷市砂原まで現在の河道を流れ、ここから越谷市大竹・恩間・袋山を囲むように北へ大蛇行する。国道4号線の上間久里、下間久里交差点付近を流れ、越谷市の宮内庁鴨場の北側で再び現在の河道に戻る。
越谷市越谷の天岳寺と久伊豆神社を東側に見て北進。越谷市花田付近まで大蛇行し南進。越谷高校を西に見て、現在の元荒川に流れ込む。これより埼玉県内は現在の河道を流れる。即ち越谷市中島で中川と合流し、越谷・吉川市境~草加・吉川市境~八潮・三郷市境と進む。八潮市大瀬付近で八潮市古新田・三郷市戸ヶ崎の境で大蛇行し、大場川に出て、再び中川に戻る。この先は東京都足立区・葛飾区境を南下。
現在の群馬埼玉県境付近を流れていた利根川は加須市に入ってしばらく東進後、現在の県境沿いに北進し、渡良瀬遊水地付近に達する。さらに県境を忠実に辿り、栃木市、古河市との境界も忠実に辿る。現在の渡良瀬川筋にあたる。古河市東北本線鉄橋南付近で南西に転進し、加須市久喜市の境界を辿る。
久喜市高柳付近で現在の中川と葛西用水接近部分に合流し、葛西用水(大落古利根川)沿いに流下(このへんの流路は個人的に?ですが)。
久喜市東部を縦断し幸手市西辺を南下。宮代町・杉戸町境界を南下。このあたりはずーつと現在の古利根川と同じ。
春日部市に入り、国道16号の南で古隅田川へ西進。春日部八幡宮と春日部高校を南に見る。旧岩槻市境で南進。豊春中を東に見て南進。豊春小を西に見て旧古隅田川に沿って南西に流れる。春日部市増戸交差点付近で南東へ。県道80号付近を南東へ。岩槻市増長交差点付近で南南東へ転進。香取神社を東に見て、岩槻市大戸付近で現在の元荒川に合流。越谷市砂原まで現在の河道を流れ、ここから越谷市大竹・恩間・袋山を囲むように北へ大蛇行する。国道4号線の上間久里、下間久里交差点付近を流れ、越谷市の宮内庁鴨場の北側で再び現在の河道に戻る。
越谷市越谷の天岳寺と久伊豆神社を東側に見て北進。越谷市花田付近まで大蛇行し南進。越谷高校を西に見て、現在の元荒川に流れ込む。これより埼玉県内は現在の河道を流れる。即ち越谷市中島で中川と合流し、越谷・吉川市境~草加・吉川市境~八潮・三郷市境と進む。八潮市大瀬付近で八潮市古新田・三郷市戸ヶ崎の境で大蛇行し、大場川に出て、再び中川に戻る。この先は東京都足立区・葛飾区境を南下。
以下は省略。

越谷市大林付近の元荒川。中央の林が宮内庁鴨場。左の林が越谷梅林公園。中世利根川はこの辺りから東側へ大蛇行していた。

越谷梅林公園1/25.少しだけ開花していた。
こんな長々、グタグタの文章を読むやつは居るのだろうか。書いた俺だって読み返す気力なし。
取り敢えず、この流路の右岸(西側)が、中世における武蔵国であり、左岸(東側)が下総国と言えるのだろう。現在の古利根川が旧国境と思いがちだが、全然違う。まさか(旧)春日部市の大半が下総国だったとは思ってもみなかつったし、ましてや(旧)岩槻市の一部が下総国とは予想ダにしていなかったもの。
この中世利根川の流路を押さえたうえで、
・大河土御厨
・太田荘
・久伊豆神社分布圏と野与氏勢力範囲
・下河辺荘
・大河土御厨
・太田荘
・久伊豆神社分布圏と野与氏勢力範囲
・下河辺荘
の位置関係を考えてみたい。