2015年01月

埼玉県東部の川歩きや久伊豆神社巡りをしていて、興味深い記録がある事を知った。



「吾妻鏡」建久5年(1194年)6月30日の条に以下のような記述がある。

「武蔵国大河土御厨において(久)伊豆宮神人喧嘩出来の由、その聞こえあり、驚き思し食すによりて尋
ね沙汰せしめんがため、掃部充行光を下し遣わさる」

後日談として、「尊卑文脈 太田行朝項傍注」に、
「太田行朝が神人の頸を刎ねたため、所領を召し放たれた」
とある。


埼玉県東南部の古い歴史的記述が少ない事から、この記録は貴重である。
が、いくつかの不明な点を含んでいる。



吾妻鏡は、「北条本」「吉川本」「島津本」などいくつかが残されているようだが、「北条本」には「伊豆社神人」とあり、「吉川本」には「久伊豆社神人」とある。
「久」が入るか入らないかで、解釈の仕方が全く異なるわけである。

鎌倉時代において、事件に対して幕府自ら初動捜査は行われなかった。事件の当事者が訴えでる事により捜査がはじまる。捜査を行うと言っても、事件当事者から提出された証拠書類を吟味するだけである。その証拠書類によって判決がくだされるのである。
この事件に関しては、幕府自ら初動捜査が開始され、幕府の重臣が現地調査に赴くという異常な事態であった事がうかがわれる。


その他にも疑問点が多々あるのである。列記しておこう。

①伊豆社神人とは、久伊豆神社神人の事か走湯山伊豆山神社神人の事か。
②喧嘩の相手は誰であったのか。
③大河土御厨で起こった事件にもかかわらず、なぜ太田荘地頭職が召し放たれたのか。
④武蔵国大河土御厨とあるが、そもそも大河土御厨の位置はどこなのか。
⑤太田荘とはどこにあったのか。
⑤それ以前に鎌倉時代の下総国と武蔵国の国境はどこにあったのか。



1.鎌倉時代の下総と武蔵の国境

久伊豆神社分布図とか、武蔵七党分布図とか、色々な資料があるが、どれもこれも現在の古利根川、元荒川がしるされており、俺は不満を持っていた。国交省河川事務所のHPなどによると、江戸時代以前の正しい河道を推定する事は困難との事なので仕方の無い事かもしれない。
しかし、古代埼玉東部の国境・郡境は河川に沿っていたはずである。古い御達しによると「国境・郡境は旧河道を以って定める事」とされ、この記述からは、河道の変化やそれに伴う争い事が起こっていたと容易に察せられるのである。

「越谷市郷土史研究会」HPの中の「作品集」にそのものズバリをようやく見出した。ここに「水のフォーラム」からの抜粋として、「中世利根川」の流路が示されていた。それは、ゼンリン地図へ手書きのマーカーを塗ったもので、素人の俺としては、非常に分かり易いものであった。
少なくとも現在の古利根川の河道とは大幅に異なるものであった。

この事件に関わる、埼玉県東部地域での中世利根川の流路を追ってみよう。

まずは、羽生市と加須市の境界付近から、
現在の群馬埼玉県境付近を流れていた利根川は加須市に入ってしばらく東進後、現在の県境沿いに北進し、渡良瀬遊水地付近に達する。さらに県境を忠実に辿り、栃木市、古河市との境界も忠実に辿る。現在の渡良瀬川筋にあたる。古河市東北本線鉄橋南付近で南西に転進し、加須市久喜市の境界を辿る。
久喜市高柳付近で現在の中川と葛西用水接近部分に合流し、葛西用水(大落古利根川)沿いに流下(このへんの流路は個人的に?ですが)。
久喜市東部を縦断し幸手市西辺を南下。宮代町・杉戸町境界を南下。このあたりはずーつと現在の古利根川と同じ。
春日部市に入り、国道16号の南で古隅田川へ西進。春日部八幡宮と春日部高校を南に見る。旧岩槻市境で南進。豊春中を東に見て南進。豊春小を西に見て旧古隅田川に沿って南西に流れる。春日部市増戸交差点付近で南東へ。県道80号付近を南東へ。岩槻市増長交差点付近で南南東へ転進。香取神社を東に見て、岩槻市大戸付近で現在の元荒川に合流。越谷市砂原まで現在の河道を流れ、ここから越谷市大竹・恩間・袋山を囲むように北へ大蛇行する。国道4号線の上間久里、下間久里交差点付近を流れ、越谷市の宮内庁鴨場の北側で再び現在の河道に戻る。
越谷市越谷の天岳寺と久伊豆神社を東側に見て北進。越谷市花田付近まで大蛇行し南進。越谷高校を西に見て、現在の元荒川に流れ込む。これより埼玉県内は現在の河道を流れる。即ち越谷市中島で中川と合流し、越谷・吉川市境~草加・吉川市境~八潮・三郷市境と進む。八潮市大瀬付近で八潮市古新田・三郷市戸ヶ崎の境で大蛇行し、大場川に出て、再び中川に戻る。この先は東京都足立区・葛飾区境を南下。

以下は省略。


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越谷市大林付近の元荒川。中央の林が宮内庁鴨場。左の林が越谷梅林公園。中世利根川はこの辺りから東側へ大蛇行していた。


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越谷梅林公園1/25.少しだけ開花していた。



こんな長々、グタグタの文章を読むやつは居るのだろうか。書いた俺だって読み返す気力なし。

取り敢えず、この流路の右岸(西側)が、中世における武蔵国であり、左岸(東側)が下総国と言えるのだろう。現在の古利根川が旧国境と思いがちだが、全然違う。まさか(旧)春日部市の大半が下総国だったとは思ってもみなかつったし、ましてや(旧)岩槻市の一部が下総国とは予想ダにしていなかったもの。 


この中世利根川の流路を押さえたうえで、
・大河土御厨
・太田荘
・久伊豆神社分布圏と野与氏勢力範囲
・下河辺荘

の位置関係を考えてみたい。

行った日:2015.1.4
目的地:岩殿観音、物見山、大蔵神社(大蔵館跡)、埼玉県立嵐山史跡の博物館
コース:東武東上線高坂駅=バス=大東文化大学前(8:45)~岩殿観音正法寺(8:50)~物見山(9:20)~市民の森~地球観測センター前~道迷い~笛吹峠・鎌倉海道上道(10:40)~大蔵神社・大蔵館跡(11:10)~ラーメン屋~埼玉県立嵐山史跡の博物館(12:10)~菅谷館跡~東武東上線嵐山駅(14;15)


HP「山登りに行きたい」のHIDEJIさんの記事で、埼玉県立嵐山史跡の博物館で、「企画展 道灌の時代 戦国時代は関東からはじまった」が催されている事を知った。
これは、行かねばなるまい。期間は~2/22まで。お正月は1/4からとの事。

これに引っ掛けて、少し長めの散歩とし、未見の史跡を訪ねる事にした。


東武東上線高坂駅から鳩山ニュータウン行きのバスに乗った。大東文化大学前で降りたのは俺だけ。

少し進むと岩殿観音の案内があり、トンネルをくぐると寺域だった。


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岩殿観音正法寺観音堂。



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超古刹である。


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崖に集まる石仏群。


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イチョウの巨木。


高台にあり、参道下には長い門前の町が見下ろせた。

さて、物見山に向かおう。
物見山は、道を戻って、すぐの所にあった。ツツジ山である。ツツジの季節にもう一度来たいものである。


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物見山山頂から日光連山が見えた。写真を拡大して見たら、女峰、男体の他に、小真名子や山王帽子などが確認できた。白い所は松木山か?


物見山は坂上田村麻呂の物語が伝わる所。標高のわりには、確かに展望が良い所であった。


さて、お次は笛吹峠に向かおう。
昭文社の「秩父・奥武蔵」を持って来たが、どうも道が判りづらい。
「市民の森」なる森の道に入った。ここは広く、複雑地形であった。取り敢えず本道と思われる道を進んだ。途中、ウォーキングのオッサンに道を尋ねた所、この道で良いとの事。

T字路を右に曲がり、「地球観測センター」なる秘密基地みたいな所に沿って歩いた。
途中、右に怪しげな道を分ける。道標も無いため、左の太めの道を行く。


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秘密基地を離れて、太めの道を選択。

根曲がり竹繁茂の道が突然開け、左手に池が現れた。昭文社の地図を見て、こりゃ道を間違えたワイと思う。

散歩中のオジサンに出くわし道を聞く。
ああっやっぱり。

かなりの迂回であった。広い県道?に突き当り、右折。峠のような所から左に怪しげな道に入った。「良品計画」なる企業の敷地に沿って道が続く。何本か分岐が現れたが、真っ直ぐ目を選択。全くの森の中である。不安感にかられる。


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ああっ笛吹峠だぁ~!ヒトケの全く無い森からの脱出だった。


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笛吹峠は鎌倉街道上ツ道にある。中道、下道とあるが、最も利用頻度が高かったのが、上ツ道と言われている。戦争もこの道沿いでたくさん起こっている。足利氏と新田氏の戦いもその一つだろう。


お次は、大蔵神社である。ここからは鎌倉街道上ツ道を一本道(友部正人ではない)である。


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おおっ、大蔵神社だぁ!


大蔵神社は、源義賢館跡と伝わる。
源義賢。帯刀先生、多胡先生(群馬県吉井町、多胡荘を領有)とも称する。源頼朝の叔父。
河越氏の祖である秩父重隆の養子となり勢力の拡大を図る。

これに不満をもったのが、
源義朝(源義賢の兄)と秩父重弘(秩父重隆の兄)である。

秩父氏は平良文の子孫であるからして、源氏、平氏入り乱れての争いとなった。

ついに大蔵合戦が勃発し、源義賢は敗れた。

源義朝は在地していなかったので、抜けた義賢の跡を埋めたのは秩父平氏だったのだろうか?結果、埼玉県域から源氏勢力の影は薄れ、中世全体を通して平氏系武士団の色が濃くなっていったような感じを受けるのだが?。
なお、大蔵合戦において源義賢の子供のうち次男駒王丸は木曾に逃れ、後の木曾義仲となるのである。

以上、?以外はすべて「中世武蔵武士人物列伝」の請け売りでした。


お次は鎌形八幡神社と思っていたが、道迷いがあり、時間が過ぎている。腹も減った。菅谷館に向かおう。

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菅谷館への道も一本道。


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都幾川河畔。のどかですなぁ。奥に笠山。右に大平山。良く見ると小倉城のある小山を発見。


で、菅谷館直前のラーメン屋で腹ごしらえ。

そして、お目当ての菅谷館跡にある埼玉県立嵐山史跡の博物館に入場。入場料は100円。ちなみに、菅谷館跡の見学だけの場合は無料です。


「企画展 道灌の時代 戦国時代は武蔵から始まった」の一色に染まった館内であった。その分、常設展示が殆ど影をひそめ、ちょっと残念。

鎌倉公方、古河公方。山内上杉、扇谷上杉、犬懸上杉。長尾景春、太田道灌。といったモロモロの入り乱れた様相と文書が展示されていた。やっぱり難しいねぇ~。
幸い、パンフレットに要所のエポックが簡潔に説明されていた。何度も読んでツルツルの脳のシワに染み込ませなくては!


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企画展の写真撮影は禁止。常設展示は可との事。この地域の城密度はすごいよなぁ~。

中でもお勧めは杉山城です。山城の小倉城と青山城の間に細い山道があるので、歩き派にはこちらもお勧めです(ただし、多少の道迷いにクジケナイ方のみ)。


博物館を出て、菅谷館跡を徘徊。


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やっぱ、すごいワ。


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本郭跡。この先に博物館がある。



さあ、寒くなる前に帰りましょう。

山行日:2015.1.3
目的地:土俵岳
コース:JR中央線藤野駅=バス=和田バス停(8:15)~一の尾根(8:50)~(9:15)陣馬山(9:40)~勘違い~陣馬山に戻る(10:00)~和田峠(10:15)~醍醐丸(10:50)~(11;50)連行山(12:00)~(12:20)生藤山(12:30)~軍刀利神社(12:50)~浅間峠(14:00敗走)~上川乗バス停(15:00)=バス=JR武蔵五日市駅


雪の無い山がいいや。

そうだ、富士山を見に行こう。半ば、無理やりひねり出したコースだった。
陣馬山から笹尾根を辿っていける所まで。一応目標は土俵岳とした。

JR藤野駅から和田行きのバスに乗った。バスは立ち客がでるほどだった。大半の人々が陣馬山登山口で降りた。俺は終点の和田まで行った。

バスを降りると歩道にうっすらと雪が残っていた。イヤだねぇ~。陣馬山の案内に従って坂道を登る。ここがコンクリ道で、雪に覆われていた。小股で歩く。コンクリ道が尽きると、雪があっても滑らないので安心して登る事ができた。やがて杉林になり、全く雪が無くなった。


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一の尾根にでると、杉林となり雪が全くなくなった。


一の尾根をユルユルと登って、


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陣馬山に着いた。


すでに多くの人々が、思い思いに憩っていた。


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相模湾か?とすれば、左は房総半島か?


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手前がこれから辿る尾根。右から大岳山、鋸山、御前山。中央奥においらのアイドル三つドッケ。左奥は鷹の巣山と雲取か?


東京スカイツリーも見えた。南アも見えた。酉谷山も見えた。すごい展望だ。


朝飯代わりに焼きソバパンを食った。


随分と長居をしてしまった。
さて、先に進みましょ。


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和田峠への道。滑りそうで怖い。


上の写真の道を下って、道を間違えたと思い込み、陣馬山に戻った。それは勘違いで、正しく下っていたのだった。20分のロス。

あ~ぁ、ヘコタレルなぁ~。

薄暗い和田峠に下り着き、登り返す。途中の小ピークには、殆ど巻いて道が着けられていた。


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醍醐丸到着。展望が無いので、スルー。


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連行山到着。バテた。チョコパンを食う。


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樹間から。


ガケのような所を登ると、


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生藤山に着いた。


生藤山には3名がご休憩中であった。
山ガール様もいらっしゃいました。

ここでもチョコパンを食う。


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すぐお隣の三国山。ここからは、武甲国境尾根となるのかな。


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軍刀利神社。日本武尊に関連する神社。かなりバテている。


武相から武甲に変わったとたんに、巻き道がなくなり、道は尾根を忠実に辿るようになった。かなりの頭峰があり、しかも雪あり、霜柱の溶けた跡ありで、足元が悪くなった。足を滑らせると肩に激痛が走るので、とても怖いのである。小股で歩くもやっぱり足を滑らせて、どっかーんと、激痛を食らう。クジケルのぉ~。
そんな、こんなで、異常にバテてしまった。


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気持ちは、ダークである。


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でも、綺麗だよね。


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こんな所はご勘弁を!


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浅間峠に到着。またしてもチョコパンを食った。


チョコパンを食いながら考えた。

北面の東京側に下って大丈夫なのか?
この調子ではおぼつかないヨ。
南面の山梨側には雪が少なそうである。が駅まで12kmとある。4時間はかかりそうねぇ~。日没か。
東京側に下るしかあるまい。ならば、凍る前に下ろう。

と言う訳で、ここで敗走する事にした。
雪を覚悟した。

が、浅間峠から下る道に全く雪は無かった。ずーと杉林が続いたのだ。そう、密植の杉林では、小雪程度では地面に雪が届かないのだ。なんとアッサリ下れた事か。助かったぁ~。


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山道を下りきると、車道に雪が残っていた。


上川乗バス停では、折よく15分待ちでバスに乗れた。


どうやら、当分、雪恐怖症が続きそうである。

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