2010年12月

山行日:2010.12.29
目的地:蕎麦粒山
コース:浦山大日堂(7:00)~逆川・広河原林道~ワサビ田作業道入り口(8:00)~ワサビ田①(8:20)~ワサビ田②・鉄塔道分岐~一工場谷~送電線下~都県境1360m鞍部(10:50)~蕎麦粒山(11:10)~(11:40)仙元峠(12:40)~仙元尾根~浦山大日堂(15:00)


昨年、一工場谷の一番東側の枝沢から日向沢の峰西方に行った時、一工場谷の本谷左岸に明瞭な道があった。一昨年、蕎麦粒山北尾根を登った時に東側から明瞭な道が合流してきた。これらの事から、一工場谷本谷から蕎麦粒山北尾根に繋がる道があるのではないかと想像し出かけてみた。
ネット上では、一工場谷の情報は極めて少ないので、今回は探索的な歩きとなった。そもそも、あるのか無いのか判らないような道を探して、ルートも決めずに歩くのははじめての経験だ。なので、危ないと思ったら、必ず引き返そうと決めていた。

浦山大日堂の駐車場にモチロン先客は居なかった。

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逆川・広河原林道を布靴で歩く。足が滑り、スピードが上がらない。おまけにコンクリートミキサー車が次々に上がっていく。恐ろしい。

林道脇にある作業小屋にバイクとヘルメットが転がっていた。作業小屋の壁からは大鹿1頭・子鹿3頭の頭がニョキリと出ている。不気味である。爺さんむが居るのかと小屋の方を見ると、青いヤッケの爺さんと目が合った。爺さんは、何故かおいらに頭を下げた。おいらも、ペコリと。ルートの様子を聞こうかと思ったが、やめた。
ワサビ田作業道に入る。

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雪の被った桟道は怖い。一歩一歩慎重に歩いた。

一つ目のワサビ田を左に見送り、一工場谷左岸に付けられた道を行く。僅かで、二つ目のワサビ田に着く。ここで一工場谷を左に渡れば薄い鉄塔道がある。右にも鉄塔道があり、これは蕎麦粒山北尾根下部の鉄塔に出られるようだ。

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鉄塔道交差点。おいらが目指すのは、一工場谷本谷沿いに続く道である。

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雪の着いた橋が次々に現れる。怖くて、あゆみが遅くなる。

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三つ目のワサビ田。この上で沢が二つに分かれた。左を選択。

間もなく送電線が頭上に見えた。

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なおも歩くとブルーシートが見えてきた。ブルーシートの中はワサビ田だった。道はここでお仕舞い。

結局、蕎麦粒山北尾根に続く道は見つからなかった。
ここで予定を変更し、危険が無い限り一工場谷を詰める事にした。目指す場所は蕎麦粒山東方、1380mピークとの鞍部とした。蕎麦粒山に直接突き上げるとドエライ急斜面になっているような気がしたから。
谷を右に左に歩きやすいところを探しながら歩いた。小さな高巻きもした。1120mで谷が3つに分かれた。一番右の谷に明るい陽が差し込み、おいらを誘っている。真ん中は緩やかで登り易そう。左の谷は暗く、狭く、大岩がいくつも顔をのぞかせている。地図・コンパス・高度計を総動員した結果、目指すルートは陰鬱な左の谷だった。ダメ元で歩き出す。大岩は右から越えられた。谷が狭くやや切り立っているので山腹は歩けない。細くなった水流沿いに歩くしかない。何度か足を濡らしてしまった。

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1230mで再び谷が分かれる。地図・磁石を確認し、右の切れ込みに入る。上は明るい。稜線は近そうだ。そして、こんな所に石積みがあった。

水流が消えた。足が冷たい。斜面が急になった。枯れた笹薮が現れた。おいでなすったね。と思う間もなく、見事に明るい稜線に出た。

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稜線に出た所の木には「2→」と朱書きされていた。高度計は1360mを指していた。大成功。

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まぶしい位の都県境を行く。

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蕎麦粒山山頂で、一本吸った。誰も現れなかった。仙元峠へ向かう。


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仙元峠着。晴れてはいるが、雲が多い。雲取山、芋の木ドッケは雪で覆われていた。鷹ノ巣山は山腹がやや白くなっている程度。富士山は見えない。

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仙元峠に架かる旗には、わけの判らない文字がびっしりと書き込まれている。

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仙元峠には、此花咲耶姫が石祠に祭られている。その台座に腰痛平癒と健脚祈願の下駄が奉納されていた。まるでおいらのために奉納されているようだ。

昼飯を食っていると、カランカランと仙元尾根の方から音がしてきた。いまだかつて仙元峠で人に会ったことが無い。
やってきたのは、ロックンローラー氏だった。上下ジーンズで長髪。長髪の先端だけ赤く染められている。ムムッ。何者だ!およそ、仙元峠に似つかわしくない御仁だった。
話を聞くと、何と藪山愛好家だった。それも、専門は足尾だと言う。詳しく話しを聞いてビックリした。
足尾でも松木川流域のみ。袈裟丸も日光も行っていない。大平山の尾根は虱潰しに登ったらしい。沢入山から見えた絶壁の尾根も登ったと。石塔尾根も松木川から直上する尾根の殆どを登ったと。まさに、命知らずのロックンローラーであった。三股山も松木川から登ったらしい。船石新道も歩いていた。庚申山からオロ山の注意事項を聞いたり、仁田元沢のスリツトダムが右側から簡単に越えられることなど、いろいろと教えて頂いた。まぁレベルが違いすぎるのでそのまま、と言うわけには行かないだろうが、参考になった。
足尾のピンチヒッターがこの山域だそうだ。大久保谷に詳しかった。今日はこれから七跳山から天目山林道を歩くと言っていた。下山時は暗くなるのでは、と聞くと、ヘッデンがあるから大丈夫との事。すごい御仁だねぇ。ちなみにネットへの記録の投稿はないのか聞いた所、一切無しとの事。残念。

ロックンローラー氏を見送り、おいらは下山。山頂直下の砂糖をまぶしたような雪に苦しむ。

所で、仙元尾根は、大幅に手が加えられていた。迷いそうな所にトラロープが張られていたり、急斜面にロープが付けられたりしていた。
嬉しいことに、彩の国キャンプ場に下る標識が取り付けられていた。

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この道が使えれば、今回のコースも短縮できる。


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三つドッケなどを眺めながら下る。と、

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最後の急斜面に木段と、補助ロープが取り付けてあった。下るにちょうど好い木段であった。と言うことは・・・、登りが大変と言うことか・・・。


今年最後の山としては予定外のルートとなったが、満足できた。藪山愛好家の話が聞けた事が、そう思わせるのかもしれない。

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歩いた日:2010.12.25
目的地:青山城
コース:武蔵嵐山駅(7:05)~菅谷館(7:20)~大平山(8:10)~小倉城(9:20)~仙元大日神(10:20)~物見山(10:30)~割谷林道(10:50)~大日山(10:55)~青山城(11:20)~仙元山(11:40)~登山口(12:10)~小川町駅(12:40)


夜のトバリがかかったまま。
始発電車に乗った。始発電車とは思えないほど大勢の人々が乗っていた。狂気の夜を過ごした人々であろうか、皆コウベを垂れていた。東武東上線に乗り換えても北へ向かう列車の座席は人々で満たされていた。一つの長いすが、赤い髪の女達で満たされていた。彼女らが全て居なくなったのは、東松山から少し先の駅だった。
おいらとて、胃がただれ、口の中がヒリヒリしている。ユルイ腹が、益々ユルクなっているので、電車に乗るのが心配だ。
少し腰が痛い。山にあまり行っていないから。それにも増して右肩が痛い。肩の関節の奥のほうだ。ジュン・サンダースを思い出してしまったが、まぁそんなことはあるまい。その内直るだろう。
体はポンコツだ。元々丈夫ではないのだが、間接、内臓ともガタがきている。

そんな訳で、ユルメの歩きをしようと思った。昭文社刊「奥武蔵・秩父」を眺めていたら、小倉城と青山城が記載されていた。破線で結ばれている。武蔵嵐山駅から小川町駅までで約5時間。ちょうど好いではないか。

武蔵嵐山駅で降りた者で、登山者らしき者は居なかった。トイレを捜し、括約筋にかかる圧力を開放した。駅前を出発。余りの寒さに軍手をはめた。やたらに飲み屋が多いねぇ。うんざりするワサ。

国道を渡ると、畠山重忠公の居館、菅谷館跡である。

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クソ寒いのぉ。

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菅谷館跡は小倉城跡、杉山城跡などと一括して比企城館跡群(?)として国指定の文化財になっていると思う。

ここは、以前何度か来ているので、一直線に通過。

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都幾川に出る。二瀬の合流点。右上流が槻川で小倉城方面である。

槻川沿いに車道を少し歩く。道に迷い、地元のオッサンに大平山の道を聞く。庚申搭や馬頭観音の石を見ながら山道に入る。途中、「山ノ神」の標識があり立ち寄る。訳のわからない石が祭られていた。アズマヤを過ぎるとすぐに大平山だった。位置的には菅谷館と小倉城の中間あたりか。杉木立がなければ、名城杉山城も見える位置のはずだ。

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大平山の先に展望地があった。筑波山が見えた。残念ながら、菅谷館や杉山城は確認できなかった。

関東ローム層の赤土を下り車道に出る。さらに下り、槻川を渡る。しばらく車道歩きが続く。

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小倉城入り口より大平山を振り返る。石碑の奥に寺がある。その右手、お墓の脇に城への登り口がある。

お墓の脇から山道に入る。

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シダの茂る美しい道だ。すぐに道は急になり、あっという間に小倉山城跡に着く。

ここは、2回目の訪問。今回は、東側に奥深く尾根を辿ってみた。すぐに城跡らしさが無くなり、普通の山道になった。左右から道が何本か上がってきている。しばらく行くと「小倉集落→」と「嵐山渓谷→」が現れた。ここで、引き返す。

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小倉城北虎口

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小倉城本郭

小倉城は中世の山城で、遺構の状態は良いそうだ。中世の城としてはめずらしく石積みの跡がそこここにある。いずれも扁平な石を平積みしたような感じで、近世の大石を積み上げたものとは趣が違う。山中のあちらこちらに天然スレートに使えるような薄い節理を持った岩石が露出している。
城主は遠山氏説と上田氏説があるようだ。北側に遠山の集落がある。
いずれにしても戦国末期は北条方の城となったようだ。

小倉山城をあちこちうろついて時間を費やした。

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この標識は、以前訪れた時に気がついていた。ただ、尾根続きで小倉城と青山城が繋がっているのを知ったのは、今週の木曜日だった。

尾根を西に進む。すぐに分岐が現れた。とりあえず急勾配の道を選んだ。根拠なし。また分岐が現れる。そして、度々分岐が現れる。下に向かう道には入らないようにした。「小川町→」や「仙元山何とかカントカ→」の標識もある。手作り的なやつが多い。

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石碑がやたらにあるピークに着いた。

一番大きな石碑には「仙元大日神」と刻まれていた。昭文社の地図にある仙元山だろう。タバコを吹かせた。けっこう時間がかかってしまったなぁ。と思っていると、オッサンが前方からやってきた。
「どこから来たの。」と聞かれたので、「嵐山駅から」と答えると、何とおいらのルートをスラスラと言い当ててしまった。精通者だろう。おいらは、ここが、本当に仙元山であるかが判らなかったので、オッサンに尋ねてみた。オッサン曰く、ここは、「仙元山では無く、仙元山は遥か先である。」とノタマワった。ウ~ン。おいらはうなるしかなかった。
おいらは、午前中には小川町駅に着けると思っていた旨を話すと、「今からでも歩き方次第では可能である。」とおっしゃられた。このピークから何本か薄い踏み跡があるので、仙元山への道を聞き、オッサンと分かれた。
少し歩くと、道が左右に分かれた。どちらに行こうか迷っていると、賑やかなオバサマ4人が前方からやってきた。おいらは、「青山城から来たのですか?」と聞いた。するとオバサンは「ハテ、大日山ってあったわねぇ~。それと城山かしら。」と。「あぁ、それです。ありがとう。」
兎に角、枝道が多い。標識もあるのだが、肝心の所に無い。どうも、薄い踏み跡でも見つけてしまうと迷うのだ。廻りは樹木が生い茂り展望が利かないので余計だ。この手の山では、勘が働かない。

僅かな時間で杉林の薄暗い物見山に着いた。

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山頂らしからぬ物見山にはまたしても熊野修験道の御札が打ち付けてあった。
たそがれオヤジさん指摘の通り、「那智山青岸渡寺」のものであった。

物見山の先にこのコース唯一の展望地があった。

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先々週行った、笠山と堂平山だろうか。

そして、割谷林道出会いを過ぎると、さっきオバサンが言っていた大日山に着いた。標識がもう一つあった。奥武蔵研究会の「のやま」なるものである。地図を見ると、大日山も「のやま」記されていない。ただ552.7mが記されているだけだった。この標高は、ここの標識と一致している。現在位置が判った。
そして、地図を見てもっと重要なことに気が付いた。仙元山はすでに通過していた。このコースの尾根上に仙元山は二つある。従って先ほどオッサンは否定していたが、あそこは一つ目の仙元山だったのだ。歩き出す前に仙元山が二つあることを認識していた。が、オッサンの自信に満ちた話で、その事を忘れてしまっていた。体もボロイが、頭もボロイ。

とりあえず、先に進む。
すると、何となく城っぽい感じの雰囲気が漂いだした。埋もれかかった堀切のような地形が現れた。ロープがかかった斜面を登り、少し行くと平坦地に出た。道は二手に別れている。右の方に案内板らしきものが見えた。


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青山城=城山に着いた。

城跡は北側に顕著に残されていた。

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堀切の跡。その他、平坦地などが段々に見受けられた。

尾根幅が狭く、規模は小倉城に比べ小さく感じた。歩き回るということも無く道なりに進み、下る。案内板には青山城城主は上田氏説が載っていた。が出典が「関八州古戦録」だけでは心もとない感じがするのだが・・・。

やがて、登り返しとなり、オッサンの言う仙元山に到着した。11:40だった。
仙元山の北側は杉が伐採され、赤城山、榛名山が見えた。

自転車の兄さんが明るく「こんにちは」と言ってやってきた。怒鳴りつけてやろうかと思ったが、我慢した。すぐにおさらば。

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仙元山のすぐ下に百庚申という庚申搭が乱立していた。

展望所に寄ろうと思ったが、なんだか面倒になり、真っ直ぐ小川の町に下った。町中でも道に迷い、地元の方に駅の位置を聞いたりした。

ラーメン屋に入り、ラーメンを食った。太麺でうまかった。そして、ただれた胃に気を使う事もなく、またしてもビールを飲んでしまった。腰越城訪問は次の機会にしよう。
そして、家に帰り、ビールを飲み、ようやく今、本編を書き終えた。

山行日:2010.12.12
目的地:牛立久保~旧正丸峠
コース:皆谷バス停(7:45)~笠山(9:10)~堂平山(10:10)~剣が峰~白石峠(10:50)~大野峠(11:40)~カバ岳(12:00)~(12:30)牛立久保(13:20)~道迷い~虚空蔵峠(13:50)~旧正丸峠(14:30)~正丸駅(15:20)


旧正丸峠から牛立久保間が、未踏になっていた。僅かな区間だが、何故か気になり、行ってみた。この区間だけだと余りにも短いコースになってしまうので、これまた未踏の笠山・堂平山に登り、目的地を目指した。
結果は、道迷い3回。「登りわんこソバ」に苦しんだ。

「登りわんこソバ」は、当ブログに時折書き込みをして頂いている「俺様様」のオリジナル(であろう)表現である。この言葉には、甚く感動を覚え、無断使用させて頂いた。

東武東上線小川町駅には、大勢が下りた。駅前に何とかマラソンの無料送迎バスが横付けされていた。おいらが乗る「白石車庫」行きはまさか混む事はあるまいと思い、タバコを吹かせていたら、とんでもない。次から次へと登山者が乗り込んでいく。あわてて、タバコをもみ消しバスに乗った。乗ってさらに驚いた。バスの運転手は、うら若き女性であった。女子高生がバス会社の制服を着ているよう。イーグルバスはやるときはやるねぇ~。
皆谷バス停で、10人近い団体と、おいらが下車。バスを降りる際に、チラリと運転手さんの顔を見たのは、おいらだけではあるまい。いいねぇ~。

バス停の植え込みのそばに腰を下ろし、焼きソバパンとコロッケパンを食った。そうこうしている内に、団体さんは出発していた。
おいらも腰を上げ出発。バス停前の便所に、「笠山登山口60m先→」とあった。笠山登山口から入山する。民家の脇を登る。と、すぐに道に迷った。お墓の前で行き止まり。上に見える車道に出てみた。とりあえず、車道を上の方に行ってみる。すると「外秩父七峰縦走、ハイキングコース」の白い立て札があり、これに従う。前半はこの看板にお世話になりっぱなしとなる。いかんせん、細い車道が多く、どこを歩いているのか良くわからないのである。

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舗装道路を歩いていると、対岸の尾根(大霧山方面)と山上集落が見えてきた。朝日地区だろうか。

山上集落が点在するこの地域にはこの手の道が多いようだ。
ひとしきり歩くと、アズマヤがあり、先行の団体さんが朝飯を食っていた。なるほどねぇ~。

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舗装道は続く。分岐でまごつく。

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民家の生垣に咲いていた。色物の少ない季節。

やがて、登山道が現れ、本格的に登るが、またしても、車道に出たりする。

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浅間山が見えた。

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日光連山が見えた。男体山は白い筋のみ。雪は少ないようだ。日光白根山だけはポツンと白くなつていた。

結構な登りが続き、笠山に着いた。この笠山、ここが本当に頂上なのかと言う所にある。すぐそこに、もっと高い所がある。

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もっと高い所には、笠山神社があった。

この神社、歴史が古く、源頼朝が奥州追討の際に社殿改造・神領御神体を寄贈した事に由来すると書かれていた。この山の東面は武蔵武士団の本拠地がゴロゴロしている。頼朝が気をつかったのだろうか。

笠山を降ると、またしても車道が。すぐに山道となり、杉林を登った。上から自転車が降りてきた。ムショウに腹が立ち「こら~っ」と叫んでしまった。蹴飛ばしてやろうかと思ったが、「すいませ~ん。」と言ってきたので、こらえた。

やがて、芝生のような所に出た。

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両神山が見えた。奥に白い連山がチラリと見えた。八ヶ岳か。

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天文台のある堂平山山頂。公園化し、車道が山頂に達している。

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長沢背稜から甲武信ヶ岳方面が見える。武甲山が小じんまりと佇んでいる。

堂平山から車道を歩く。すぐに、山道が右手に分かれ、ここを辿る。超急斜面を登ると、ピークに「東大地震観測所」があった。ピークを降り、再び急斜面を登ると剣が峰に着いた。山頂は無線施設に占領され、金網の傍らに石碑が、悲しく佇んでいた。

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石碑には、右から
摩利支天
剣ヶ峰大神
オオヤマツミの命
とかかれていた。そしてその傍らに、御札があった。
「平成十八年、奉修行武蔵国剣ヶ峰入峯、天下泰平如意祈願、十二月吉祥日、那智山青○○寺」
この御札は良く見る。那智山青○○寺をあとで調べてみよう。○○の所は、達筆過ぎる事と消えかけている事で判読できないのだ。

剣ヶ峰の降りは異様に急で道も判然としない。道が途絶えたが、下に車道が見えたので強引に降った。剣ヶ峰の駐車場に降ってしまった。ヤレヤレと云った感じ。ルートが良く判らなくなったが、右手に砂利道があったのでそちらを辿った。しばらく行くと、さらに右手からオッサンが下ってきた。どうやら、そちらに正規の道があったようだ。
山道を辿ると、白石峠に到着。車道が交錯している。アズマヤで一服。くだんのオッサンは川木沢の頭に向かってしまった。アララ・・・。その道、超長い木段が続いているのをご存知であれば良いのだが・・・。

おいらは、川木沢の頭は車道で巻いた。さらに車道で高篠峠をやり過ごす。すると、バイクのオッサンが「大野峠はこの先ですか?」と聞いてきた。「この先は、白石峠ですよ。大野峠は、今来た方ですよ。」と答えた。オッサンは「そうですか。」と言い、そのまま白石峠に向かった。しばらくすると、バイクのオッサンは舞い戻って、大野峠の方へ走り去った。兎に角、道は複雑だ。
車道から山道へ入り、木段を登る。やはり、木段を避けることはできなかった。丸山分岐を過ぎると、登山者で賑わった。大野峠にも多くの登山者がタムロしていた。
ここから、車道脇の登山道を辿る。ようやく、雑木林にありつく。

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カバ岳に到着。

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カバ岳付近の雑木林より、堂平山と笠山を確認。結構歩いてきたなぁ。

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明るい雑木林は好きなのだ。

小ピークから西に尾根が派生している。この尾根が正丸峠に繋がる尾根ではないのかなぁ、と思うが道は南に下るのみ。

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そんな事を思いながら歩いていると、ようやく牛立久保に着いた。ここから、正丸峠に向かうのだ。

牛立久保は単なる分岐点と思っていたが、違っていた。

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牛立久保は尾根を西に僅かに下った所で、潅木が茂る平坦地だった。そして、湿っていた。

おいらは、湿った平坦地が好きなのだ。そして、雑木林も好きなのだ。他人はどう見るか判らないが、おいらとしては、別天地的場所だったのだ。

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地面が湿っているので、倒木をベンチ代わりとした。そして、昼飯とした。一時間近く居座ってしまった。あれほど多かった登山者は、ここには立ち寄らないのか、誰一人やってこなかった。
おいらだけが好みの場所ではないようだ。動物たちがこの場所に集まって来るようだ。動物が地面をひっくり返した跡がやたらと多かった。

気がつくと、先ほどまでの青空が無くなっていた。思い腰を上げた。牛立久保から杉林を抜け小さくピークを巻いた。下りとなる。

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武甲山が近づいた。

道が悪くなった。笹が被り始めている。倒木が尾根を塞いでいる。おかしいな。と気がついたが遅かった。奥武蔵にあって一般道が藪めいている所は殆ど無い。ここで、初めて地図を見た。どうやら一本北の尾根に入っているようだ。このまま下っても虚空蔵峠に出られるかもしれない。が、やめた、1/50000図では自信が無い。元来た道を登り返す。ここの所、道迷いが多すぎる。本日3回目。
やはり、小ピークを巻いたのがいけなかった。巻かずに行くのが正解。薄い踏み跡の誘惑に負けていたのだ。

またまた、車道に出て虚空蔵峠に到着。北側の尾根を見ると、ここまで戻って来るのは大変そうに見えた。やや新しい石祠の裏に登山道があった。急な木段の地獄道であった。小ピークに登り詰めると、先に小ピークが見え、木段を登る。登ったピークに展望があるわけではない。ただ、「関東ふれあいの道」の石盤があるのみ。人の往来は皆無なので、ふれあいもままならない。



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まさに、「登りわんこソバ」状態。もうたくさんだヨー。と叫ぶ前に小ピークと木段という「わんこソバ」が椀につがれてしまうのだ。

旧正丸峠に着いたときは、ホッとした。わんこソバは終わったのだ。低い山なので、あっという間に下る事ができる。

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きれいに飾られた石仏を過ぎると、国道は近かった。

クレバスとはどのようなものなのだろう。
イメージ的には氷河にできる亀裂。硬く深い青氷の亀裂の底でゴーゴーと水が流れている感じで捕らえているのだが、想像でしかない。

以前、「クレバスのような所」に落ちた事がある。あくまで、「ような所」で、これをクレバスと呼んでよいのか判らない。

場所は、岡山・鳥取の県境・恩原三国山の鳥取県側の尾根直下。雪庇の真下である。
この山、雪が無い季節に登るにはエンジン着きの草刈機と、替え刃3枚ほど無ければ無理である。


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岡山県中津河の集落から中津河川を遡り県境の一つ手前の尾根をスキーで登った。

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途中、巨杉が孤高に聳えている。この尾根を大杉尾根と命名した。最近のネット記事を見ると、巨杉の枝が大分折れ、危機的状態になっているようだ。


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恩原三国山西方のピーク。

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恩原三国山。貧弱なピークであるが、かつて、おいらのアイドルであった。あのピークの向こう側でクレバスのような穴に落ちた。

その日(2001.3.24)、おいらは、恩原三国山(岡山・鳥取県境)の東腹をトラバースし、三国山北嶺(鳥取県)に向かった。早朝はガリガリに雪が凍り付いていたが、気温が上がり雪は柔らかくなっていた。雪ロールが至る所で斜面を転がり落ちており嫌な感じのトラバースであった。スキーを滑らせ一気に通過した。雪庇の小さい所をよじ登り、恩原三国山と三国山北嶺を結ぶ尾根に出た。ここから北嶺には、アッサリ着き、鳥取側の景色を堪能した。
帰りは、恩原三国山との鞍部までスキーを滑らせたが、山腹のトラバースは雪が緩んできたので危険と判断し、恩原三国山に一旦登り、岡山県側に下ることにした。
シールを貼り、やや細い尾根を登る。東側に雪庇が張り出している。すぐに急な斜面となる。前方に岩を抱えた杉が現れた。スキーを履いたままでは通過できない。この当時、山中でスキーを脱ぐ事はまず無かった。なので、一旦、山腹東面に降りて巻こうと考えた(西面は超急斜面)。
幸い雪庇が雪堤状になっており、雪堤の腹にスキーを滑らせた。山腹に着くと同時に、ズドンと体が落ちた。雪庇と山腹の間にできた亀裂に落ちたのだ。亀裂は雪が被っており見えなかった。深さは身長より少し深かったので2m位だった。
狭い亀裂で身動きが取れなかった。足は全く動かないのでスキーが穴の奥で雪に刺さってしまったようだ。おいらの、登山経験上で尤もアセッタ場面であった。アセッタ時は、タバコを吹かせるのだが、この時ばかりはそうもいかなかった。この山で人に出会ったのは、1114m峰という超マイナーなピークを目指すと言っていた人に3年前に会っただけだ。絶対に人は来ない。それだけは間違いない。

自力で脱出するしかない。少しだけ動く腕で穴の側面を少しずつ削った。手袋に水が染みてきた。とりあえず腕は動くようになった。しかし、どうあがいても足は全く動かない。手はビンディングに届かない。ビンディングはジルブレッタ404。前方の開放機能は無い。踵の捻じれのみの開放である。踵をひねった。が、ビンディングが開放されることは無かった。あ~ぁ、このまま、ここでくたばるのか、と、一瞬思ったりもした。
硬い雪ではなかった。まして青氷などではない。根気良く手で雪を掻き、手でビンディングを開放するしかない。1時間以上は経過しただろうか。ようやくビンディングに左手がかかり、左足が開放された。次いで、左足の先で右の踵を押し付け、ついに自由の身になったと思ったが、流れ止め(ヒモ状)が取れない。苦労して流れ止めをはずした。一旦、穴から這い出てタバコを吹かした。助かった。
スキー靴で雪を削り、もう一度穴に入った。意外にもスキーは簡単に回収できた。

スキーを担ぎ、深雪に悩まされながらツボ足で尾根を辿ると、僅かで恩原三国山に達した。

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県境の尾根を逃げるように滑り降りた。

以後、冬に三国山北嶺には行っていない。そして、雪庇恐怖症となった。

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