山行日:2009.9.26
目的地:宿堂坊山、ネギト沢のコル
コース:西の湖入り口(8:30)~柳沢林道~18号コンクリート床固(8:45)~東尾根~宿堂坊山(11:00)~ネギト沢のコル~宿堂坊山(12:50休)~東尾根~18号コンクリート床固(14:00)~西の湖(休)~千手ヶ浜(15:40)
目的地:宿堂坊山、ネギト沢のコル
コース:西の湖入り口(8:30)~柳沢林道~18号コンクリート床固(8:45)~東尾根~宿堂坊山(11:00)~ネギト沢のコル~宿堂坊山(12:50休)~東尾根~18号コンクリート床固(14:00)~西の湖(休)~千手ヶ浜(15:40)

今回行ったコース。
随分涼しくなったし、雨も長らく降っていない。宿堂坊山に行くチャンスだと思った。できれば、ネギト沢のコルまで足を伸ばし、近年発見された石覗を見てみたい。
日光は、まだ秋の行楽シーズンには少し早い。その為か、赤沼からのハイブリットバスはそれほど混雑していなかった。
西の湖入り口では数人が下車した。中に屈強のメンバーを取り揃えたと思われるグループがいた。
おいらは、呑気に焼きソバパンをほおばり、出発は最後となった。西の湖への林道を歩き、分岐を柳沢林道へ入る。地味な秋の花が咲き乱れていた。
おいらは、呑気に焼きソバパンをほおばり、出発は最後となった。西の湖への林道を歩き、分岐を柳沢林道へ入る。地味な秋の花が咲き乱れていた。

柳沢林道

こんな花が咲いていた。
徒歩約15分とめぼしを着けていた地点には二つ目の堰堤があった。この先で、先行の屈強メンバーが右斜面に取り付こうとしていた。大岳へでも行くのか?

18号コンクリート床固。床固て何?

柳沢川は、思ったとおり水量が少なかった。
堰堤の手前を簡単に渡ることができた。堰堤の先のガレが目指す尾根の末端のようだったが、登りずらそうなので左側に迂回してみた。すると広い平坦地があり、やや下り気味に進むと、尾根のタワミが見えた。

平坦地から見た目指す尾根。あのタワミに登ってみよう。
タワミには簡単に登れた。そこには踏み跡があった。取り敢えず磁石で方向を確認。この東尾根はほぼ一直線に山頂に続いているので、磁石は一回セットすればもう動かす必要は無い。
磁石の方向と尾根の方向は一致しているので、まず目的の東尾根と考えてよいだろう。
磁石の方向と尾根の方向は一致しているので、まず目的の東尾根と考えてよいだろう。
すぐに石楠花の厭な尾根となるが、最初だけだった。すぐ上で、右手に巻き登る場所があったが、後は尾根上を忠実に登った。踏み跡は、有る様で無く、無い様で有る、と言った具合。唐松林が多く、ヤブは殆ど無い。テープ類は多い。急坂だが登りにくいということは無い。「雲切り新道」よりよほどましだ。途中地図に現れない小尾根が左から上がってきた。やがて二重山稜となる。テープに従い、左の尾根に移る。左の尾根に移らなくても行けそうだが。

二重山稜の間にあったヌタ場。動物の足跡が入り乱れている。

早くも色付き始めた木々が見受けられる。今年の紅葉は早そうだ。
1800m付近で都笹が現れ、傾斜が緩む。展望は、殆ど得られない。

時折、陽が射すと、驚くほど赤く染まった楓が目を引く。

青笹の広い斜面を適当に登ると、

待望の宿堂坊山に着いた。
山頂からの展望は殆ど無い。多少山を下ったりすると、かろうじて白根隠し山が見える程度だった。御料局三角点があった。
一服後、ネギト沢のコルに向かう。群馬・栃木国境尾根には、さすがにしっかりした道がついていた。と思う間も無く、踏み跡は不鮮明になった。しかし、金属製の指示板が多数取り付けられ、問題なく歩けた。約10分の下りでネギト沢のコルに到着した。テント1~2張り分位の刈払いがなされていた。
一服後、ネギト沢のコルに向かう。群馬・栃木国境尾根には、さすがにしっかりした道がついていた。と思う間も無く、踏み跡は不鮮明になった。しかし、金属製の指示板が多数取り付けられ、問題なく歩けた。約10分の下りでネギト沢のコルに到着した。テント1~2張り分位の刈払いがなされていた。

問題の石覗は大木の根本にあった。

複製品であろうか、発見当時のように銅製の扉が付いていた。弘治二年(1556)は室町戦国期である。その横に、昭和六十三年再造とある。この石覗の発見により、当該地が三峰五禅頂の男嶽の宿に、宿堂坊山が旧名男嶽に比定された。室町期に日光の峰修行がこの奥山に達していたことが証明されたのだ。毛利元就や武田信玄が世に出る頃か。
日光市や栃木県は、もっとこの石覗を重要視していただきたいものだ。世界遺産の日光の社寺は、この奥山に通じていることを。建造物群だけで無く、当時の民衆のエネルギーを。

石覗の脇には、もう一つ人の手にかかった石があった。大半は木の根に覆われていて、その内容は確認できない。
感慨深く、長く佇んでいた。何故、感慨深いのかがよく判らない。ただ、古の世に、自分の足だけでこの地に至った人々がいたことに驚嘆せざるを得ない。道はあったのだろうか。食料はどうしていたのだろうか。宿とはいったいどんな風だったのだろうか。次々に疑問が湧いてくる。

ここも展望が良くないが、笹を掻き分け斜面を下ると皇海山が見えた。
長居をしたが、再び宿堂坊山に戻り、昼飯を食った。
すると、遠くから熊除けの錫の音が聞こえてきた。徐々に近づいてきた。こちら方面の達人とご対面できるのかとワクワクしたが、鈴の音はやがて遠ざかってしまった。いったい、どこから登り、どこへ行ったのだろう。凡人のおいらには達人の行動を推測することはできなかった。
さあ、下山しよう。もと来たルートを忠実に下った。急斜面が多く、木につかまりながらの下山となった。手は樹液でベトベトとなった。しかし、案外アッサリと下れた。

時間があるので久しぶりに、西の湖に立ち寄った。西の湖は干上がりかけていた。秋になると毎年こうなのだろうか。それとも今年が特別なのか。
さらに千手ヶ浜に立ち寄り、雲のかかった男体山を拝み、バス停へ向かった。
一度動き出したバスはおいらの姿を見つけると止まってくれた。
一度動き出したバスはおいらの姿を見つけると止まってくれた。
何故か、満足して帰途に着いた。