行った日;2019.7.21
千葉氏の本佐倉城を訪れた後、京成本線大佐倉駅に戻り、京成うすい駅に向かった。うすい駅は大佐倉駅よりも賑わいがあり、すぐにラーメン店を発見。お冷とチャーハンをかき込み臼井城に向かった。
臼井城は以前から行きたかった城だった。
長尾景虎は、永禄3年(1560)大晦日を上野厩橋城で過ごし、翌永禄4年2月から小田原城を目指し南進を開始した。北関東の国人たちは、次々に越軍に参陣した。小田原城を包囲したが、反越軍の武田、今川の軍勢が動いた事を察知し、包囲を解いて鎌倉鶴岡八幡宮社前で上杉の名跡を受け越後に去った。その後、連年に渡り関東に現れ後北条氏との闘争が繰り返された。
永禄9年(1566)、臼井城は越後、安房、上総、北関東の諸勢力に包囲された。3月20日臼井城は実城(本郭)の堀を残すのみの状態に陥った。
しかし、臼井城の奮戦により、その3日後、越軍は大敗北を喫し、5000人に登る死者を出してしまった。越軍大敗北の理由は分からないが、上杉軍は、里見軍の陣に一時留まったという。
しかし、臼井城の奮戦により、その3日後、越軍は大敗北を喫し、5000人に登る死者を出してしまった。越軍大敗北の理由は分からないが、上杉軍は、里見軍の陣に一時留まったという。
この時の臼井城主は原式部大輔胤貞。たまたま作戦名人の白井入道が弓の修行のため滞在中であった。
山際に控えていた越軍に山崩れが襲たとも(小田原北条記)。
山際に控えていた越軍に山崩れが襲たとも(小田原北条記)。
臼井城での越軍大敗北により、北関東の国人は一気に後北条氏に従属する事になり、この戦いを画期とし越軍の大規模な関東遠征はなくなる事になる。

広い国道296号線稲荷台2丁目付近より、かつての大手道と思われる細い坂道に入った。
細い舗装道を少し登ると舌状台地上の平坦路となる。道の両側は住宅地となっている。やがて、道が左右に分岐する。左手に鳥居が見える。

星神社に到着。ここがⅢ郭相当部分のようだが、その面影は感じられない。
分岐に戻り、右の道に入ると、

太田図書ノ助のお墓。ここもⅢ郭であろうか。土塁状の上にお墓があった。
臼井城は、1479年に太田道灌にも攻められている。道灌は弟図書ノ助の討ち死を伴いながらも落城させている。
太田図書ノ助のお墓の先には深い掘が現れて、道が左右に分かれる。右に進むと、

臼井城址を示す石柱。
ここを緩く登ると、

Ⅱ郭。但し案内類は無い。


Ⅱ郭とⅢ郭を分ける堀は深い。

Ⅱ郭とⅠ郭を分ける堀は広い。

Ⅱ郭からⅠ郭への土橋。この付近で激しい戦いがあったのだろうか。

堀とⅠ郭切岸。

Ⅰ郭。ここが実城であろう。

Ⅰ郭下。腰郭であろうか。

Ⅰ郭の折れを伴う切岸。

Ⅰ郭から印旛沼を遠望。

Ⅰ郭の東側を下る。

Ⅰ郭下。

Ⅰ郭下を下ると、最後はコンクリ壁となり、車の往来が激しい道に出た。
ここから、印旛沼に向かった。

臼井城を振り返る。中央の低い森が、臼井城かな。

印旛沼に到着。
印旛沼では、お金持ちらしき人々がモーターボート遊びに興じていた。
汗を拭き拭き、京成うすい駅にもどった。
帰宅途中、選挙に寄る。
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