
行った日:2019.7.21
平安時代から活躍した千葉氏。
内部抗争や、古河公方と関東管領の抗争に巻き込まれ暫時勢力は衰えた。さらに安房里見氏・上総武田氏の台頭、小弓御所の自立などにより、東京湾岸から内海香取の海(印旛沼畔本佐倉)に本拠を移さざるを得なかった。やがて後北条氏に属する。とは言え後北条氏一門衆筆頭格の氏照(4500騎)、氏邦(5000騎)に次ぐ3000騎を数えるという。
内部抗争や、古河公方と関東管領の抗争に巻き込まれ暫時勢力は衰えた。さらに安房里見氏・上総武田氏の台頭、小弓御所の自立などにより、東京湾岸から内海香取の海(印旛沼畔本佐倉)に本拠を移さざるを得なかった。やがて後北条氏に属する。とは言え後北条氏一門衆筆頭格の氏照(4500騎)、氏邦(5000騎)に次ぐ3000騎を数えるという。
などと、電車の中で読んだ本の請売り。
一説によると、武蔵七党野与党の先祖は千葉氏と同じく平忠常(相当の悪人であったらしい。)。あくまで、一説ではあるが。
佐倉駅を過ぎると、車窓はいきなり田園風景となった。田園の先には小高いテーブル台地が見える。閑散とした「大佐倉駅」で下車したのは俺だけであった。
線路沿いの細い道から、田地と台地の境界を歩き始めると、
線路沿いの細い道から、田地と台地の境界を歩き始めると、

遠くに本佐倉城らしきものが見えた。
近づくと、明らかに城址であると分かった。台地(東山)を廻り込むと谷戸地の風景が現れ、

本佐倉城登城口(東山馬場)に着いた。

千葉氏の家紋つきの自販機(東山馬場)。

案内板。東光寺ビョウの北側の道から来た。
通常、本郭とか、本丸とか、二郭とか案内されるのが普通だが、今回は案内板の名称で記述する事にしよう。どうも「城山」が本郭・本丸に相当するようだ。
東山馬場を緩く登ると、

千葉氏の家紋が描かれた盾のようなものが迎えてくれた。上段がⅣ郭のようだ。

盾とは反対に大きな北面虎口が見えた。
上の写真の右側に登ると、

東山に続く尾根上に出て、虎口外側が見える。でかい!

東山付近は天然の巨大土塁。湿りきっていた。
東山馬場に戻り、Ⅳ郭に登った。

Ⅳ郭北西のピークには神社があった。

広々としたⅣ郭に戻り、地続きの斜面を緩くを登ると花畑となった鞍跡に出た。草原だ。後方が神社ピーク。
倉跡の東側に、

奥の山(二郭)の切岸が現れて、

広々とした奥の山(二郭相当)の平坦面と、奥のコンモリが妙見宮跡。
踏み跡に沿って歩くと、

奥の山(二郭)と城山(本郭)を分ける堀切。
堀切から切岸状に沿って斜上すると、

城山(本郭)。

城山にある茶室跡発掘地。

城山(本郭)。
城山から奥の山、倉跡に戻り、セッテイ(Ⅶ郭相当)に向かう。

やや迷い気味に、

セッテイ(Ⅶ郭)西側の堀。

セッテイ付近の虎口。ここは良く判らなかった。

セッテイ(Ⅶ郭相当)。薮蚊に刺されまくって退散。

竪掘状。この先で倒木に草がからまる。泥にまみれて突破。汗ダクじゃ。
東光寺ビョウ(6郭相当)にでて、往路の小道戻る。
千葉氏ゆかりの勝胤寺に向かう。

勝胤寺、千葉氏累代のお墓。
ここより、「大佐倉駅」に戻る。
クーラーの利いた電車内が心地よい。
が、次の臼井城に向かわなければ。
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