行った日;2017.6.24
目的地:清久氏館跡(久喜市上清久:雷電神社、常徳院)、粟原城(久喜市鷲宮;鷲宮神社)
コース:東武伊勢崎線久喜駅=バス=高木病院前バス停~道迷い~清久氏館跡~粟原城跡(鷲宮神社)~東武伊勢崎線鷲宮駅


日光の山に行こうと早起きをしたが、どうも気乗りがしなくなった。こんな日もある。
家でゴロゴロしていると、腰が痛くなる。どこかに行かなければ、との強迫観念のようなものに襲われる。


捻り出したのが、清久氏館跡の探訪だった。
「デカマップ埼玉」を見ていると、清久氏館跡から歩いて旧鷲宮町の鷲宮神社(粟原城跡)に行けそうである。

清久次郎秀行の活動は吾妻鏡の記述から知られる。源頼朝の初上洛や奈良東大寺落慶供養の折に随行している。
清久次郎秀行(久喜市清久)は太田荘太田行尊の子孫大河戸行方の次男である。長男は大河戸広行(大河戸御厨)、三男高柳行基(栗橋町または加須市)、四男葛浜行平(加須市、騎西町)。いわゆる藤原秀郷流太田氏の一族とされる。
しかし、俺は多少の疑問をもっていた。太田氏系であれば、騎西領用水(新川、旧日川)左岸に割拠しているはずであるが、久喜市清久は騎西領用水の右岸に位置するのである。右岸は崎西郡になり野与党の領域となる。まぁ、素人の考えなので旧日川の流れが、現在の騎西領用水とは完全には一致していないのかな、などと思っていた。
ところが、「埼玉の城址めぐり」を読み直してみると、「久喜市史調査報告書・第二集[清久村郷土史]に「・・・源平の時代、野与党の一族に清久次郎(清久山城守)がおり・・・」の記述を発見。おおっ、やっぱりそう考える御仁がおったかぁ~、と、なぜか安心したりするのである。

久喜駅から「菖蒲仲橋」行きのバスに乗り、「高木病院前」バス停で降りた。



道に迷った。みつからん。「デカマップ埼玉」だけでは無理があった。
県道を行ったり来たり。犬に吠えられる。
仕方ない、農作業の方に雷電神社の位置を聞いてみようと脇道に入ったら、神社らしきものを発見。



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久喜市上清久・雷電神社、清久氏館跡。


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雷電神社、清久氏館跡。


やっとみつけた雷電神社であったが、住宅地が浸食してきており神社としてはややお寒い状況であった。また、残念ながら中世の館跡の雰囲気は微塵も感じられなかった。
お隣の常徳院に移動。


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常徳院。雷電神社から徒歩2分。


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常徳院、清久氏館跡。


白幡山常徳院と雷電神社は神仏習合による一体のものであったが、明治初年に神仏分離令により境内を二分したそうだ。


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常徳院にて。


常徳院もまた、中世館跡の雰囲気は全くなかった。ただ、周辺の田地とは比高1~2m位の微高地にある事はすぐに判った。

常徳院のガラス付きの案内には清久氏の系図が張り出されていた。写真を撮って後でみればいいやと思っていたが、家で写真を見るとガラスが反射して全く読みとれなかった。ガクッ。


所で、県道を挟んで、「赤旗神社」なるものがあった。常徳院は「白幡(白旗)山常徳院」である。地元伝承では、この近辺で紅白の戦いがあり、赤旗=平、白旗=源で、白旗の勝利となり、清久氏の治めるところとなった。
清久氏は執権北条氏の滅亡とともに滅びた。



さしたる成果も得られず、県道12号を北上。
騎西領用水を渡ると、(旧)鷲宮町の住居標示となった。ここからほぼ太田荘領域と思っていいのではないか。などと、生意気な事を頭に浮かべつつ、大汗をかいて歩いた。

東武鉄道を跨線橋で渡り、左折。青毛掘川に沿って歩くと、大きな森が見えだした。



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鷲宮神社に到着。


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鷲宮神社神楽殿。



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鷲宮神社、粟原城跡。ここも城跡の感じは皆無。


鷲宮神社は鎌倉期以降、多くの武将たちの崇拝をあつめた。徳川家康からは400石の社領を受けていた。ちなみに武蔵国一宮大宮氷川神社の社領は100石であった。
鷲宮神社が粟原城としていつ頃から機能したかは判っていないが、上杉謙信が小田原城を包囲した折に、上杉方の羽生城主木戸氏によって粟原城は焼き落とされた。従ってこの頃は、小田原北条氏の傘下に入っていたものと思われる。

この後、お隣の花崎城に行くつもりであったが、いつもの如く、もういいかぁ~と思い、クーラーの利いた電車に乗り込んだ。