行った日;2016.8.16
コース;つくばEXつくば駅=つくバス=北条三叉路バス停~無量寺~多気山城山麓西面の道~多気山城山麓北面の道~つくば道~宝安寺~鹿島神社~毘沙門天種子碑~日向廃寺跡~熊野神社~全宗寺~無量院~多気太郎(多気義幹墓)五輪塔~北条三叉路バス停=つくバス=小田中部バス停~小田城案内書~小田城~小田中部バス停=つくバス=つくばEXつくば駅


以前、筑波道から筑波山に登った折、西に低い山が見え、地図を見ると「城山」とでていた。

石井進著「中世武士団」と言う本がある。これを読み進んでいくと、何章かに渡って常陸平氏の歴史が綴られていた。平将門退治をきっかけに、平貞盛流一族が常陸国に繁茂し、栄華を極めて行く。後にその宗家ともいうべき多気氏が桜川西岸の水守の地から桜川東岸の多気の地に移ったという。現在のつくば市北条地区である。そして、その裏山が多気山城、現在の城山である。
繁茂した常陸平氏を並べてみよう。
多気氏、下妻氏、真壁氏、吉田氏、石川氏、馬場大掾氏、行方氏、麻生氏、玉造氏、手賀氏、鹿島氏、石毛氏、豊田氏等々。

2,3日前、する事も無くテレビのチャンネルを変えていると、放送大学で、「地域の歴史」という番組を放送していた。そして、代表例として常陸平氏の繁栄の事例を紹介していた。


多気山城に至るルートは、判らなかった。取り敢えず、つくバスに乗り北条三叉路バス停で降りた。まずは無量寺に行ってみよう。



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無量寺内にあった、多気稲荷社。


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無量寺。多気義幹による創建と伝わる。


無量寺内や背後の墓地を巡り、多気山城へのルートを捜す。確実な道は発見できず。登れそうな所はあったが、蜘蛛の巣がひどく退散。

北条の街並みに戻る。
賑やかに会話中の婆さんの間に割り込み、「裏山へ登る道は知りませんか」と聞くも、「知らない」との事。仕方ない、ぢ道に多気山・城山山麓を時計回りに歩いてみよう。

西面で、爺さんに裏山の道を聞くも知らないと。



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東面より、多気山・城山を望む。


東面で、農作業中の爺さんに声をかけると、婆さん声の返事。ん、婆さんが草叢から現れた。
婆さんによると、「この先に城山に上がる道があるが、入れない」と。どこかの宗教団体に山全体が買われてしまったとの事。ムムムッ。俺はしつこく、「徒歩なら入れるんでしょ」と聞くと、口をへの字にして、ダンマリになってしまった。「ありがとう」と言って先に進んだ。

とりあえず、この先に道があるようだ。
つくば道に出た。つくば道を南下してすぐ、ムムムッ、大きな白い鉄扉で塞がれた道が多気山・城山の方に向かっている。婆さんが言っていた道は、これに違いない。閉鎖の仕方が異常に厳重である。ここを強行突破したとて、何かトラブルでも起こったらたまらんワイ。そう思わせるに充分な異常さであった。

仕方ない、他の道を捜そう。
北条地区に向かう短絡道をたどって、宝安寺、鹿島神社、毘沙門天種子碑、日向寺跡、熊野神社、全宗寺と歩いた。結果、熊野神社右手に踏み跡を発見、但し、ここも蜘蛛の巣だらけ。今日はやめておこう。


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日向廃寺跡。つくば市の資料によると、平安末期の阿弥陀堂跡で、多気氏の拠点であったと推測されるとの事。


そして、無量寺に戻る。ここに、多気太郎五輪塔→の案内があり、向かう。


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多気義幹の五輪塔着。


平安時代中期より繁栄した多気氏。鎌倉時代に下野国よりやってきた八田氏(宇都宮氏一族、常陸守護)により欺かれ、没落していく。八田氏はここから至近の地小田で、小田氏を名乗る。


バス停に行くと、折よくすぐにバスがやってきて、小田中部バス停に向かった。バス停でわずか4ツ目の近さである。両雄並びたたず、か。


小田中部バス停から少し東に歩いてから右折すると、「小田城案内所」があった。以前来た時は無かった施設である。案内所には二人の係員がいた。
俺は、小田城の事では無く、多気山城の事について質問した。

①多気山城への道はないのか。
  ありません。
  現在他市の宗教法人に買い取られております。宗教法人は、関係者以外の訪問を嫌っております。
②つくば市は、300億円超のスポーツ施設を計画しておったが、そんな計画をするぐらいなら、多気山 城・城山を買い取れはよかったのでないか。
  係員①
  住民投票で建設が否決され、県会議員に笑われておりますよ。ああいった施設は必要なんですがねぇ  ~。
怒。
  係員②
  まぁ、まぁ、いろんな考え方がありますからねぇ~。
③多気山城は、つくば市で発掘調査をしていると聞いておりますが。
  係員②
  はい、2009年頃に調査しました。結果、戦国期後半の遺物のみが発掘され、多気氏在城の証拠は  出ておりません。
ムムムッ。汗・・・。
④水守の城はどんな感じですか。
  あちらは、開発が進み素人では城跡の感じは受けにくいかもしれません。

その後、係員①から懇切丁寧に小田城周辺の遺跡分布についてレクチャーを受けた。悲しいかな、歩留まりほぼ0であった。申し訳ありません。


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小田城跡。解説板。


宇都宮氏の一族八田知家は源平合戦の勲功により、常陸国守護職に抜擢された。常陸平氏宗家多気氏の本拠地から歩いて行ける小田の地に城をかまえ、小田を名乗る。

宗家多気氏を欺き没落させたとはいえ、周辺には常陸平氏の有力者がゴロゴロしている。他にも、佐竹、結城、多賀谷等々がひしめいており、枕を高くして寝る事はできたのだろうか。俺だったら、そんな出世はしたくない。

やがて時代は過ぎ、南朝勢力の東国拠点となる。その後も、小山若犬丸事件(難台山城)に関わったリ、上杉謙信に攻められたり、小田城争奪合戦は延々と続く。右往左往はあったものの、戦国末期まではなんとか持ちこたえが、佐竹、結城連合軍に小田城を占拠される(関八州古戦録)。


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整備された小田城跡①。



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小田城跡②


  
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小田城跡③ 後ろの山は宝篋山。係員①によると宝篋山城もあると言う。その山麓にも土塁跡が点在するとの事。


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小田城跡④


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小田城跡⑤ 筑波山の右手裾野に小さく多気山・城山が見えた。


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小田城跡⑥


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小田城跡⑦


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小田城跡⑧ 遠く地平線のどこかに、常陸平氏故地水守城跡があるはずである。


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小田城跡⑨ 左にリンリンロード(自転車道、土浦~岩瀬、かつての筑波鉄道軌道跡)。



この後、極楽寺跡に行こうと思っていたが、天気予報に反するギンギラギンの太陽にギブアップ。バス停に向かった。


はたして、現在、多気山城はどうなっているのであろうか。


筑波山麓に展開した多気氏と小田氏。同じ市内に両雄が並び立つ不思議な地域である。お金持ちであろうつくば市においては、なんとかなんなかったのかねぇ~。残念ですなぁ~。