埼玉東部の川歩きをしていて、気付いた事がある。綾瀬川、元荒川の岸辺に久伊豆神社があり、中川に香取神社が多くあった。ネットで調べてみたら、正にその通りの事がいくつもヒットした。即ち、
①氷川神社は綾瀬川以西に分布。
②久伊豆神社は綾瀬川東岸~元荒川西岸に分布。
③香取神社は元荒川以西、千葉県、茨城県に分布。
そして、久伊豆神社分布域と武蔵七党(鎌倉時代の血縁的集団)の野与党の勢力範囲が一致する。
さらに野与党は久伊豆神社とのかかわりが深いらしい。
②久伊豆神社は綾瀬川東岸~元荒川西岸に分布。
③香取神社は元荒川以西、千葉県、茨城県に分布。
そして、久伊豆神社分布域と武蔵七党(鎌倉時代の血縁的集団)の野与党の勢力範囲が一致する。
さらに野与党は久伊豆神社とのかかわりが深いらしい。
なるほどと思った。なぜなら、草加市内では①がピタリと当てはまり、②は綾瀬川東岸で一致するから。
ところが、現在(に限る)の久伊豆神社で相当でかい越谷の久伊豆神社は②に反して元荒川東岸べりにある。ムムムッ。
よく調べると、久伊豆神社の分布は埼玉南部では例外的に中川西岸にも僅かながら存在し、中部地域では、かなりの数が古利根川西岸にも分布している事が判った。
これらの久伊豆神社の例外的分布は、元荒川(荒川)の流路の変遷(自然的、人為的)により元荒川東岸に取り残されたものと納得していたのだが。
よく調べると、久伊豆神社の分布は埼玉南部では例外的に中川西岸にも僅かながら存在し、中部地域では、かなりの数が古利根川西岸にも分布している事が判った。
これらの久伊豆神社の例外的分布は、元荒川(荒川)の流路の変遷(自然的、人為的)により元荒川東岸に取り残されたものと納得していたのだが。
なんとなく気になり、越谷へでかけてみた。
越谷に御殿町なる町名がある。徳川家康が江戸城に移った後に狩りを楽しむためにしばしば越谷の地に赴いたらしい。そこに御殿を建て1カ月ほども滞在したした事があるという。

越谷市御殿町。御殿町は逆川と元荒川に囲まれた中州のような所。背後は逆川。

明暦江戸大火の修復資材として御殿は取り壊された、とある。
元荒川の少し上流北越谷に宮内庁の鴨場(猟場)がある。家康も鴨猟をしていた可能性大である。
この50m先に古い板碑があるらしい。
この50m先に古い板碑があるらしい。

あった、あった!

古い板碑。

鎌倉時代のものだ!
江戸時代以前の旧利根川、旧荒川の河道位置特定は困難なんだそうだが、家康の御殿があり鎌倉時代の板碑があるとなると古くから元荒川(荒川)がこの地点を流れていたと推察してもいいような気がする。
すると、久伊豆神社の分布は元荒川西岸に限らなくなると言う事になるのである。困った。
鎌倉時代の板碑から元荒川を挟んで樹間越しに越谷久伊豆神社の参道入り口が見える。

元荒川・宮前橋から。左天嶽寺。右久伊豆神社。
久伊豆神社と天嶽寺の入り口は並んでいる。間に庚申塚があり、「北 いわつき 南 ~ 」などと書かれている。

越谷市越谷。長い参道を歩いて、久伊豆神社。

久伊豆神社。

久伊豆神社由緒。
ムムッ、なんと越谷久伊豆神社は野与党ではなく、「武蔵七党の私市(きさい)党の崇敬を受ける」とあるではないか!
久伊豆神社に関して、「元荒川西岸に分布」と「野与党との深い関係」の二つが脆くも崩れ去った。
私市党が信仰したのは、玉敷神社。玉敷神社を調べてみると、久伊豆神社の元締めのような感じ。なんだか、良く分からなくなってきた。
私市党と野与党の本拠地は旧騎西町と加須市。騎西町は加須市に吸収されている。
私市党が信仰したのは、玉敷神社。玉敷神社を調べてみると、久伊豆神社の元締めのような感じ。なんだか、良く分からなくなってきた。
私市党と野与党の本拠地は旧騎西町と加須市。騎西町は加須市に吸収されている。

越谷市越谷。天嶽寺。

天嶽寺由緒。
天嶽寺は、後北条氏の砦との事であるが、元荒川を背にした位置は初めから背水の陣でとても信じられなかったのであるが。
調べてみると、
上杉方の岩槻城主太田資正が国府の台の戦いで里見方で参戦。戦いに敗れ帰還の途に着くも、嫡子
氏資が北条氏康と謀り帰城を拒まれ、岩槻城は乗っ取られた。1564年。
次いで、関宿城が1574年に陥落。後北条氏は一気に常陸南部、下総、上総に版図を広げた。
上杉方の岩槻城主太田資正が国府の台の戦いで里見方で参戦。戦いに敗れ帰還の途に着くも、嫡子
氏資が北条氏康と謀り帰城を拒まれ、岩槻城は乗っ取られた。1564年。
次いで、関宿城が1574年に陥落。後北条氏は一気に常陸南部、下総、上総に版図を広げた。
天嶽寺が北条の砦となったのは、岩槻城乗っ取り~関宿城陥落の間の出来事かと想像しているが定かではない。
ちなみに、草加市柿木町の東漸寺の文書1571年に「岩附奉行は柿木川戸の年貢未進分を取り立てるように」が残されている。草加市域もこの頃北条の版図に入ったのだろう。石高は、微々たるものだったろうな。
ちなみに、草加市柿木町の東漸寺の文書1571年に「岩附奉行は柿木川戸の年貢未進分を取り立てるように」が残されている。草加市域もこの頃北条の版図に入ったのだろう。石高は、微々たるものだったろうな。
川歩きからはじまった疑問は、なにからなにまで中途半端な答えしか見つかっていない。
山歩き同様、ボチボチ調べ歩いてみよう。
山歩き同様、ボチボチ調べ歩いてみよう。
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