歩いた日:2010.12.25
目的地:青山城
コース:武蔵嵐山駅(7:05)~菅谷館(7:20)~大平山(8:10)~小倉城(9:20)~仙元大日神(10:20)~物見山(10:30)~割谷林道(10:50)~大日山(10:55)~青山城(11:20)~仙元山(11:40)~登山口(12:10)~小川町駅(12:40)
目的地:青山城
コース:武蔵嵐山駅(7:05)~菅谷館(7:20)~大平山(8:10)~小倉城(9:20)~仙元大日神(10:20)~物見山(10:30)~割谷林道(10:50)~大日山(10:55)~青山城(11:20)~仙元山(11:40)~登山口(12:10)~小川町駅(12:40)
夜のトバリがかかったまま。
始発電車に乗った。始発電車とは思えないほど大勢の人々が乗っていた。狂気の夜を過ごした人々であろうか、皆コウベを垂れていた。東武東上線に乗り換えても北へ向かう列車の座席は人々で満たされていた。一つの長いすが、赤い髪の女達で満たされていた。彼女らが全て居なくなったのは、東松山から少し先の駅だった。
おいらとて、胃がただれ、口の中がヒリヒリしている。ユルイ腹が、益々ユルクなっているので、電車に乗るのが心配だ。
少し腰が痛い。山にあまり行っていないから。それにも増して右肩が痛い。肩の関節の奥のほうだ。ジュン・サンダースを思い出してしまったが、まぁそんなことはあるまい。その内直るだろう。
体はポンコツだ。元々丈夫ではないのだが、間接、内臓ともガタがきている。
始発電車に乗った。始発電車とは思えないほど大勢の人々が乗っていた。狂気の夜を過ごした人々であろうか、皆コウベを垂れていた。東武東上線に乗り換えても北へ向かう列車の座席は人々で満たされていた。一つの長いすが、赤い髪の女達で満たされていた。彼女らが全て居なくなったのは、東松山から少し先の駅だった。
おいらとて、胃がただれ、口の中がヒリヒリしている。ユルイ腹が、益々ユルクなっているので、電車に乗るのが心配だ。
少し腰が痛い。山にあまり行っていないから。それにも増して右肩が痛い。肩の関節の奥のほうだ。ジュン・サンダースを思い出してしまったが、まぁそんなことはあるまい。その内直るだろう。
体はポンコツだ。元々丈夫ではないのだが、間接、内臓ともガタがきている。
そんな訳で、ユルメの歩きをしようと思った。昭文社刊「奥武蔵・秩父」を眺めていたら、小倉城と青山城が記載されていた。破線で結ばれている。武蔵嵐山駅から小川町駅までで約5時間。ちょうど好いではないか。
武蔵嵐山駅で降りた者で、登山者らしき者は居なかった。トイレを捜し、括約筋にかかる圧力を開放した。駅前を出発。余りの寒さに軍手をはめた。やたらに飲み屋が多いねぇ。うんざりするワサ。
国道を渡ると、畠山重忠公の居館、菅谷館跡である。

クソ寒いのぉ。

菅谷館跡は小倉城跡、杉山城跡などと一括して比企城館跡群(?)として国指定の文化財になっていると思う。
ここは、以前何度か来ているので、一直線に通過。

都幾川に出る。二瀬の合流点。右上流が槻川で小倉城方面である。
槻川沿いに車道を少し歩く。道に迷い、地元のオッサンに大平山の道を聞く。庚申搭や馬頭観音の石を見ながら山道に入る。途中、「山ノ神」の標識があり立ち寄る。訳のわからない石が祭られていた。アズマヤを過ぎるとすぐに大平山だった。位置的には菅谷館と小倉城の中間あたりか。杉木立がなければ、名城杉山城も見える位置のはずだ。

大平山の先に展望地があった。筑波山が見えた。残念ながら、菅谷館や杉山城は確認できなかった。
関東ローム層の赤土を下り車道に出る。さらに下り、槻川を渡る。しばらく車道歩きが続く。

小倉城入り口より大平山を振り返る。石碑の奥に寺がある。その右手、お墓の脇に城への登り口がある。
お墓の脇から山道に入る。

シダの茂る美しい道だ。すぐに道は急になり、あっという間に小倉山城跡に着く。
ここは、2回目の訪問。今回は、東側に奥深く尾根を辿ってみた。すぐに城跡らしさが無くなり、普通の山道になった。左右から道が何本か上がってきている。しばらく行くと「小倉集落→」と「嵐山渓谷→」が現れた。ここで、引き返す。

小倉城北虎口

小倉城本郭
小倉城は中世の山城で、遺構の状態は良いそうだ。中世の城としてはめずらしく石積みの跡がそこここにある。いずれも扁平な石を平積みしたような感じで、近世の大石を積み上げたものとは趣が違う。山中のあちらこちらに天然スレートに使えるような薄い節理を持った岩石が露出している。
城主は遠山氏説と上田氏説があるようだ。北側に遠山の集落がある。
いずれにしても戦国末期は北条方の城となったようだ。
城主は遠山氏説と上田氏説があるようだ。北側に遠山の集落がある。
いずれにしても戦国末期は北条方の城となったようだ。
小倉山城をあちこちうろついて時間を費やした。

この標識は、以前訪れた時に気がついていた。ただ、尾根続きで小倉城と青山城が繋がっているのを知ったのは、今週の木曜日だった。
尾根を西に進む。すぐに分岐が現れた。とりあえず急勾配の道を選んだ。根拠なし。また分岐が現れる。そして、度々分岐が現れる。下に向かう道には入らないようにした。「小川町→」や「仙元山何とかカントカ→」の標識もある。手作り的なやつが多い。

石碑がやたらにあるピークに着いた。
一番大きな石碑には「仙元大日神」と刻まれていた。昭文社の地図にある仙元山だろう。タバコを吹かせた。けっこう時間がかかってしまったなぁ。と思っていると、オッサンが前方からやってきた。
「どこから来たの。」と聞かれたので、「嵐山駅から」と答えると、何とおいらのルートをスラスラと言い当ててしまった。精通者だろう。おいらは、ここが、本当に仙元山であるかが判らなかったので、オッサンに尋ねてみた。オッサン曰く、ここは、「仙元山では無く、仙元山は遥か先である。」とノタマワった。ウ~ン。おいらはうなるしかなかった。
おいらは、午前中には小川町駅に着けると思っていた旨を話すと、「今からでも歩き方次第では可能である。」とおっしゃられた。このピークから何本か薄い踏み跡があるので、仙元山への道を聞き、オッサンと分かれた。
少し歩くと、道が左右に分かれた。どちらに行こうか迷っていると、賑やかなオバサマ4人が前方からやってきた。おいらは、「青山城から来たのですか?」と聞いた。するとオバサンは「ハテ、大日山ってあったわねぇ~。それと城山かしら。」と。「あぁ、それです。ありがとう。」
兎に角、枝道が多い。標識もあるのだが、肝心の所に無い。どうも、薄い踏み跡でも見つけてしまうと迷うのだ。廻りは樹木が生い茂り展望が利かないので余計だ。この手の山では、勘が働かない。
「どこから来たの。」と聞かれたので、「嵐山駅から」と答えると、何とおいらのルートをスラスラと言い当ててしまった。精通者だろう。おいらは、ここが、本当に仙元山であるかが判らなかったので、オッサンに尋ねてみた。オッサン曰く、ここは、「仙元山では無く、仙元山は遥か先である。」とノタマワった。ウ~ン。おいらはうなるしかなかった。
おいらは、午前中には小川町駅に着けると思っていた旨を話すと、「今からでも歩き方次第では可能である。」とおっしゃられた。このピークから何本か薄い踏み跡があるので、仙元山への道を聞き、オッサンと分かれた。
少し歩くと、道が左右に分かれた。どちらに行こうか迷っていると、賑やかなオバサマ4人が前方からやってきた。おいらは、「青山城から来たのですか?」と聞いた。するとオバサンは「ハテ、大日山ってあったわねぇ~。それと城山かしら。」と。「あぁ、それです。ありがとう。」
兎に角、枝道が多い。標識もあるのだが、肝心の所に無い。どうも、薄い踏み跡でも見つけてしまうと迷うのだ。廻りは樹木が生い茂り展望が利かないので余計だ。この手の山では、勘が働かない。
僅かな時間で杉林の薄暗い物見山に着いた。

山頂らしからぬ物見山にはまたしても熊野修験道の御札が打ち付けてあった。
たそがれオヤジさん指摘の通り、「那智山青岸渡寺」のものであった。
物見山の先にこのコース唯一の展望地があった。

先々週行った、笠山と堂平山だろうか。
そして、割谷林道出会いを過ぎると、さっきオバサンが言っていた大日山に着いた。標識がもう一つあった。奥武蔵研究会の「のやま」なるものである。地図を見ると、大日山も「のやま」記されていない。ただ552.7mが記されているだけだった。この標高は、ここの標識と一致している。現在位置が判った。
そして、地図を見てもっと重要なことに気が付いた。仙元山はすでに通過していた。このコースの尾根上に仙元山は二つある。従って先ほどオッサンは否定していたが、あそこは一つ目の仙元山だったのだ。歩き出す前に仙元山が二つあることを認識していた。が、オッサンの自信に満ちた話で、その事を忘れてしまっていた。体もボロイが、頭もボロイ。
そして、地図を見てもっと重要なことに気が付いた。仙元山はすでに通過していた。このコースの尾根上に仙元山は二つある。従って先ほどオッサンは否定していたが、あそこは一つ目の仙元山だったのだ。歩き出す前に仙元山が二つあることを認識していた。が、オッサンの自信に満ちた話で、その事を忘れてしまっていた。体もボロイが、頭もボロイ。
とりあえず、先に進む。
すると、何となく城っぽい感じの雰囲気が漂いだした。埋もれかかった堀切のような地形が現れた。ロープがかかった斜面を登り、少し行くと平坦地に出た。道は二手に別れている。右の方に案内板らしきものが見えた。
すると、何となく城っぽい感じの雰囲気が漂いだした。埋もれかかった堀切のような地形が現れた。ロープがかかった斜面を登り、少し行くと平坦地に出た。道は二手に別れている。右の方に案内板らしきものが見えた。

青山城=城山に着いた。
城跡は北側に顕著に残されていた。

堀切の跡。その他、平坦地などが段々に見受けられた。
尾根幅が狭く、規模は小倉城に比べ小さく感じた。歩き回るということも無く道なりに進み、下る。案内板には青山城城主は上田氏説が載っていた。が出典が「関八州古戦録」だけでは心もとない感じがするのだが・・・。
やがて、登り返しとなり、オッサンの言う仙元山に到着した。11:40だった。
仙元山の北側は杉が伐採され、赤城山、榛名山が見えた。
仙元山の北側は杉が伐採され、赤城山、榛名山が見えた。
自転車の兄さんが明るく「こんにちは」と言ってやってきた。怒鳴りつけてやろうかと思ったが、我慢した。すぐにおさらば。

仙元山のすぐ下に百庚申という庚申搭が乱立していた。
展望所に寄ろうと思ったが、なんだか面倒になり、真っ直ぐ小川の町に下った。町中でも道に迷い、地元の方に駅の位置を聞いたりした。
ラーメン屋に入り、ラーメンを食った。太麺でうまかった。そして、ただれた胃に気を使う事もなく、またしてもビールを飲んでしまった。腰越城訪問は次の機会にしよう。
そして、家に帰り、ビールを飲み、ようやく今、本編を書き終えた。
そして、家に帰り、ビールを飲み、ようやく今、本編を書き終えた。
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