昨年のコロナ緊急事態宣言中、暇をもてあまして、水木しげるの「神秘家列伝」をゴロ寝をしながら読んでいると、「天狗小僧寅吉」にいきあたった(その時の記事は、本ブログ・アーカイブ「2020年5月」を参照願います。)。
内容は、
江戸の少年寅吉が天狗の親玉杉山僧正と出会い、空中を飛んで常陸国の難台丈という山へ赴く。そして岩間山で天狗の修行に励むというもの。
ややあって、寅吉の存在を幕末の国学者平田篤胤の知る所となる。平田篤胤らによって聞き取り調査が行われ、それを「仙境異聞」という本にまとめられた。というもの。
「仙境異聞」は近年、複数の会社から出版されたらしく、そこそこの売り上げだそうだ。俺も近所の本屋で「仙境異聞」を捜した。そうしたところ、「角川ソフィア文庫;天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞」を手にする事ができた。
読み始めて、初めの方の寅吉の身の上話や岩間山の話は面白く読めたのだが、平田篤胤から寅吉への異界などの質問とその応答のやり取りが、なんとも虚しいものに感じられ、読み進めるのがつらくなってしまった。
要は、寅吉少年は大ホラ吹きなのである。平田篤胤の友人の中には篤胤を諌める者もあったようだが、多くは篤胤とともに熱心に寅吉の話に聞き入るのだった。
ただ、寅吉少年がホラばかり吹いていたわけでは無い。一番初めに天狗の親玉杉山僧正につれて行かれた南台丈(難台山:茨城県笠間市(旧岩間町))に「獅子ヶ鼻岩」がある事を指摘している。獅子ヶ鼻は確かに現存している。そしてかなりローカルな存在である。この事は寅吉少年が、実際に南台丈に行ったことがあるか、もしくは南台丈に熟知した人から獅子ヶ鼻の事を聞いたと推察される。
そして、南台丈(難台山)は吾国山と加波山の間にあるという。これは一般的におかしな話で、実際には難台山の隣に吾国山があり、難台山~吾国山の連嶺と谷を隔てて加波山があるのである。しかし、岩間山での修行から江戸に帰る途中、「大宝村の八幡宮」に寄るように師匠から言われているのである。大宝村の八幡宮とは現在の下妻市の大宝八幡宮であろう。すると、帰途のルートは岩間山(現在の愛宕山)から現在の桜川市に出て加波山~筑波山の西麓から下妻、大宝村へと歩いたと考えられるのである。このルートであれば桜川市~下妻市のどこからか難台山が加波山と吾国山の間に見える所があるかもしれないのである。
桜川市高峯から。左に難台山、その右に吾国山。だと思う。

桜川市高峯から。上の写真の右側。地元の爺さんの話では、正面の山が加波山だそうだ。

上2枚の写真は、左から難台山、吾国山、加波山の順に並んでいる。しかし、もう少し下妻市、大宝村方向に移動した所からは難台山が中央に見えるような所があるかもしれない。
本の訳者注には山の位置関係がおかしいと指摘があるが、下妻あたりからは、難台山が中央に見えるかもしれない。
本の半ばに「越谷降臨の記」という項がたてられている。
寅吉が平田家に逗留中に病にかかり伏せっている折、寅吉がうわごとのような声を発しだし、その声がしだいに大きくなってくる。声音は寅吉のものではない。篤胤の妻折瀬が「あなた様は寅吉の先生でいらっしゃいますか」と聞くと、「そうだ」との返事。そして、「久伊豆様もここにいらっしゃるのだ」と。
ムムムッ・・・・。まさか、久伊豆様が出てこようとは・・・。
久伊豆様とは久伊豆神社の祭神のことであろう。久伊豆神社は旧埼玉郡の元荒川と綾瀬川に囲まれた地域のみに分布する超ローカルな神社である。このローカルな神様の事を江戸に住む子供が知っているのだろうか。
そこで、繋がってくるのが大宝村である。江戸から埼玉県の中川縁を経由して栃木県の喜連川まで「下妻街道」なる古道が存在する。大宝八幡宮を経由して江戸に帰った寅吉が越谷久伊豆神社に立ち寄ることは可能なのである。
そして、大宝八幡宮に現存する梵鐘は武蔵国崎西郡(埼玉郡の一部の俗称)渋江郷平林寺のために1387年に鋳造されたものであり、多賀谷氏の戦利品として1577頃に寄進されたものである。多賀谷氏とは、もともとは平安時代末期より埼玉郡に勢力を持つ武蔵七党の野与党の一族であった。野与党は久伊豆神社を奉祭し、野与党と久伊豆神社は密接な関係にある。多賀谷氏は、後に下総結城氏の傘下に入り、戦国末期には独立した姿勢を示すようになり、常陸の小田氏を圧迫するようになる。
という事で、久伊豆様と大宝八幡宮が寅吉の足跡によってかすかに繋がるのである。
大宝八幡宮。社域は大宝城内にある。大宝城は南朝方として戦ったが、落城。

しかし、実は、越谷久伊豆神社と平田篤胤の関係は以上の話とは比べものにならないほど濃密なものだったのである。
平田篤胤は43歳で越谷宿の油商人山崎篤利の養女と再婚している。篤胤は出版などに関して山崎篤利から経済的支援を受けていた。さらに山崎篤利らの支援によって越谷久伊豆神社の社域に草庵をむすんでいたのである。
越谷久伊豆神社。


久伊豆神社の庭。下の写真の鳥居の右側に標柱が立っている。これが「平田篤胤の寓居跡」の標柱。

「平田篤胤の寓居跡」の標柱。


平田篤胤の門人らによって久伊豆神社に寄贈された藤。

春の様子。もう少し房は大きくなる。

平田篤胤が仮住まいを構え越谷久伊豆神社に滞在していた。また、越谷宿の人々から厚遇を受けていた。してみると「越谷降臨の記」の部分は、平田篤胤の筆が滑り久伊豆様を登場させてしまったのではないか。とのかんぐりを生じさせてしまう。
さて、寅吉は本当に常陸国の難台丈や岩間山で天狗の修行をしたのだろうか。かなり怪しい。
寅吉が平田家に「これから岩間山へ行く。」と暇乞いに訪れた。篤胤は弟子の五十嵐対馬が下総香取郡笹川村に帰るという事で、寅吉を笹川村から筑波山麓へ送りとどけるようにと言い含めた。寅吉は笹川村で何日か逗留していた。いざ五十嵐対馬が「筑波山まで連れて行ってやろう」と言うと、寅吉はいつのまにか行方知れずとなってしまった。10日程後に笈箱を背負った寅吉が平田家に戻ってきた。なんでも師匠が山廻りのくじ番を当てて今年の寒行は休みになったのだと。やはり怪しい。
とは言え、笈箱を背負って戻ってきたとなると、少なくとも修験者との交流があったのだろうと思われる。そして岩間山の十三天狗の話なども事細かく知っていた。江戸に住む少年が、非常にローカルな話題に精通している事は、不思議な事である。
そして、平田篤胤が異境地岩間山を訪れたふしが無いのも不思議なことである。
暇をもてあまし、そんな事を妄想する今日この頃であった。
内容は、
江戸の少年寅吉が天狗の親玉杉山僧正と出会い、空中を飛んで常陸国の難台丈という山へ赴く。そして岩間山で天狗の修行に励むというもの。
ややあって、寅吉の存在を幕末の国学者平田篤胤の知る所となる。平田篤胤らによって聞き取り調査が行われ、それを「仙境異聞」という本にまとめられた。というもの。
「仙境異聞」は近年、複数の会社から出版されたらしく、そこそこの売り上げだそうだ。俺も近所の本屋で「仙境異聞」を捜した。そうしたところ、「角川ソフィア文庫;天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞」を手にする事ができた。
読み始めて、初めの方の寅吉の身の上話や岩間山の話は面白く読めたのだが、平田篤胤から寅吉への異界などの質問とその応答のやり取りが、なんとも虚しいものに感じられ、読み進めるのがつらくなってしまった。
要は、寅吉少年は大ホラ吹きなのである。平田篤胤の友人の中には篤胤を諌める者もあったようだが、多くは篤胤とともに熱心に寅吉の話に聞き入るのだった。
ただ、寅吉少年がホラばかり吹いていたわけでは無い。一番初めに天狗の親玉杉山僧正につれて行かれた南台丈(難台山:茨城県笠間市(旧岩間町))に「獅子ヶ鼻岩」がある事を指摘している。獅子ヶ鼻は確かに現存している。そしてかなりローカルな存在である。この事は寅吉少年が、実際に南台丈に行ったことがあるか、もしくは南台丈に熟知した人から獅子ヶ鼻の事を聞いたと推察される。
そして、南台丈(難台山)は吾国山と加波山の間にあるという。これは一般的におかしな話で、実際には難台山の隣に吾国山があり、難台山~吾国山の連嶺と谷を隔てて加波山があるのである。しかし、岩間山での修行から江戸に帰る途中、「大宝村の八幡宮」に寄るように師匠から言われているのである。大宝村の八幡宮とは現在の下妻市の大宝八幡宮であろう。すると、帰途のルートは岩間山(現在の愛宕山)から現在の桜川市に出て加波山~筑波山の西麓から下妻、大宝村へと歩いたと考えられるのである。このルートであれば桜川市~下妻市のどこからか難台山が加波山と吾国山の間に見える所があるかもしれないのである。
桜川市高峯から。左に難台山、その右に吾国山。だと思う。

桜川市高峯から。上の写真の右側。地元の爺さんの話では、正面の山が加波山だそうだ。

上2枚の写真は、左から難台山、吾国山、加波山の順に並んでいる。しかし、もう少し下妻市、大宝村方向に移動した所からは難台山が中央に見えるような所があるかもしれない。
本の訳者注には山の位置関係がおかしいと指摘があるが、下妻あたりからは、難台山が中央に見えるかもしれない。
本の半ばに「越谷降臨の記」という項がたてられている。
寅吉が平田家に逗留中に病にかかり伏せっている折、寅吉がうわごとのような声を発しだし、その声がしだいに大きくなってくる。声音は寅吉のものではない。篤胤の妻折瀬が「あなた様は寅吉の先生でいらっしゃいますか」と聞くと、「そうだ」との返事。そして、「久伊豆様もここにいらっしゃるのだ」と。
ムムムッ・・・・。まさか、久伊豆様が出てこようとは・・・。
久伊豆様とは久伊豆神社の祭神のことであろう。久伊豆神社は旧埼玉郡の元荒川と綾瀬川に囲まれた地域のみに分布する超ローカルな神社である。このローカルな神様の事を江戸に住む子供が知っているのだろうか。
そこで、繋がってくるのが大宝村である。江戸から埼玉県の中川縁を経由して栃木県の喜連川まで「下妻街道」なる古道が存在する。大宝八幡宮を経由して江戸に帰った寅吉が越谷久伊豆神社に立ち寄ることは可能なのである。
そして、大宝八幡宮に現存する梵鐘は武蔵国崎西郡(埼玉郡の一部の俗称)渋江郷平林寺のために1387年に鋳造されたものであり、多賀谷氏の戦利品として1577頃に寄進されたものである。多賀谷氏とは、もともとは平安時代末期より埼玉郡に勢力を持つ武蔵七党の野与党の一族であった。野与党は久伊豆神社を奉祭し、野与党と久伊豆神社は密接な関係にある。多賀谷氏は、後に下総結城氏の傘下に入り、戦国末期には独立した姿勢を示すようになり、常陸の小田氏を圧迫するようになる。
という事で、久伊豆様と大宝八幡宮が寅吉の足跡によってかすかに繋がるのである。
大宝八幡宮。社域は大宝城内にある。大宝城は南朝方として戦ったが、落城。

しかし、実は、越谷久伊豆神社と平田篤胤の関係は以上の話とは比べものにならないほど濃密なものだったのである。
平田篤胤は43歳で越谷宿の油商人山崎篤利の養女と再婚している。篤胤は出版などに関して山崎篤利から経済的支援を受けていた。さらに山崎篤利らの支援によって越谷久伊豆神社の社域に草庵をむすんでいたのである。
越谷久伊豆神社。


久伊豆神社の庭。下の写真の鳥居の右側に標柱が立っている。これが「平田篤胤の寓居跡」の標柱。

「平田篤胤の寓居跡」の標柱。


平田篤胤の門人らによって久伊豆神社に寄贈された藤。

春の様子。もう少し房は大きくなる。

平田篤胤が仮住まいを構え越谷久伊豆神社に滞在していた。また、越谷宿の人々から厚遇を受けていた。してみると「越谷降臨の記」の部分は、平田篤胤の筆が滑り久伊豆様を登場させてしまったのではないか。とのかんぐりを生じさせてしまう。
さて、寅吉は本当に常陸国の難台丈や岩間山で天狗の修行をしたのだろうか。かなり怪しい。
寅吉が平田家に「これから岩間山へ行く。」と暇乞いに訪れた。篤胤は弟子の五十嵐対馬が下総香取郡笹川村に帰るという事で、寅吉を笹川村から筑波山麓へ送りとどけるようにと言い含めた。寅吉は笹川村で何日か逗留していた。いざ五十嵐対馬が「筑波山まで連れて行ってやろう」と言うと、寅吉はいつのまにか行方知れずとなってしまった。10日程後に笈箱を背負った寅吉が平田家に戻ってきた。なんでも師匠が山廻りのくじ番を当てて今年の寒行は休みになったのだと。やはり怪しい。
とは言え、笈箱を背負って戻ってきたとなると、少なくとも修験者との交流があったのだろうと思われる。そして岩間山の十三天狗の話なども事細かく知っていた。江戸に住む少年が、非常にローカルな話題に精通している事は、不思議な事である。
そして、平田篤胤が異境地岩間山を訪れたふしが無いのも不思議なことである。
暇をもてあまし、そんな事を妄想する今日この頃であった。
コメント
コメント一覧
私なんか、ぶなじろうさんの昨年の記事を拝見し、角川と岩波文庫、両方ともに読みました。確かに、篤胤の寅吉への扱いが、それこそ妄想者を邪険にしているようには感じがし、後半は読み流ししてしまいました。
なるほど、そういう背景があるのかなといった感じで、改めて読みなおししてみます。
たそがれさんも後半は読み流しですか!自分も「女じま嶋のこと」あたりから、なんかイヤな気分が漂い始め、「鉄を食う獣のこと」で、ダメだこりゃと。以降は虫食い読みになりました。
小学校以来の読書感想文でしたが、薄弱な推理に終始しておりまして、まさに妄想、妄言の羅列になってしまいました。